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2004年4月29日 (木)

言語論における神祕主義

 『言語過程説の研究』(リーベル出版)の著者、川島正平氏がウェブサイト
を開設された。川島氏は同書の中で、吾國におけるソシュール言語學の大家にして、思想家としても一部で人氣のあつた丸山圭三郎氏の「極度の現實無視の考へ方」を嚴しく批判してゐる。川島氏は、丸山氏の「コトバ以前には、コトバが指さすべき事物も概念も存在しないのである」と云ふ主張を引用したうへで、かう指摘する。

 《コトバ》(中略)以前に《概念》が存在しないといふ主張は、彼もソシュール論者でありシニフィアン(木村註:言葉の内容である概念すなはちシニフィエに對し、言葉の外見である音聲・映像を指す)の伴はない概念の存在を認めないのであるから、一應分らないでもない(中略)。けれども、《コトバ》以前に《事物》が存在しないと述べた時點で、明らかに彼は、われわれの常識を完全に超越したところの神祕的な説を主張する論客となつてしまつたのである。(234-235頁)

 川島氏が云ふ通りであつて、丸山氏の主張を眞に受ければ、人類が言葉をまだ話さなかつた大昔は、空も大地も太陽も月も存在しなかつたと云ふ事になつて仕舞ふ。何ともトンデモない思想である。或いは丸山氏は、「事物」と云ふ言葉で、われわれが想定する現實の「事物」とは異る次元の對象を指してゐるのかもしれない。しかしそれならそれで、これも川島氏が批判する通り、しかるべき注釋を附加へておくべきであらう。
 實は、川島氏が高く評價する言語學者、三浦つとむ氏も、ソシュールの影響を受けたと覺しきフランスの構造主義者たちの非現實的な言語論を同じやうに批判してゐる。

 この作者非存在論(木村註:フランスの作家、アラン・ロブ=グリエが主張した文學理論)は、作者が存在しないのに小説が生れるといふ主張ですから、これをつきつめていくと、人間が存在しないところに言語が生れるといふ言語論になります。頭があまりよくなくてオッチョコチョイな、構造主義者とよばれる人たちが、作者非存在論の尻馬にのつてこのやうな言語論を持ち出しました。(『日本語はどういふ言語か』134頁、講談社學術文庫)

 三浦氏はこの後、具體的な構造主義者としてラカンとフーコーの名を擧げる。フーコーへの批判は以下の通りである。

 これまでは人間が思考し思想をつくつてそれを言語によつて表現するとか、人間が社會的生活の中で「言語」の體系をつくり出してそれを使つてゐるとか、考へられて來たけれども、それはまちがひで、(中略)人間が語つたり書いたりしてゐるやうに見えても主體としてカラッポであり存在しないのである、――とフーコーは主張します。もはや人間といふ概念は必要なくなつたといふわけです。理論のまちがひといふものは、はじめは小さなものでも、それをどこまでも固守してつきつめていくと、とてつもない大きなバカバカしいものになるといふことが、ここでも實證されてゐます。(同)

 返す刀で、三浦氏は、フーコーらの思想を信奉する日本の論者も糾彈する。

 その主張をうのみにして、日本の言語學者も表現とか主體とかいふ概念を使つてゐるが、これは解體しなければならないと論じる、日本人の評論家も出てくるしまつです。(同書、135頁)

 「日本人の評論家」が誰を指すのか私には判然としないが、三浦氏が意識したか否かにかかはらず、この批判の對象には、丸山氏の「極度の現實無視の考へ方」も當然含まれると見なければなるまい。
 三浦氏は唯物論者であり、唯物論には唯物論なりの思想的弱點なり限界なりが存在するであらう。しかしここでは、三浦氏による構造主義者批判、竝びに、三浦氏の批判精神を受繼いだ川島氏による丸山批判に、私は同意する。フーコーや丸山圭三郎に見る「極度の現實無視の考へ方」が、どのやうな思想史的脈絡の中で生れたのかについても論じたいものだが、悲しい哉、知識が餘りに乏しい。なほ、川島氏の『言語過程説の研究』には、今をときめく文藝評論家、柄谷行人氏に對する辛辣な批判も展開されてゐるので、關心のある方は是非御一讀を。(平成13年2月4日)

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