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2004年4月29日 (木)

短歌衰亡

戦わぬ男淋しも昼の陽にぼうっと立っている夏の梅 (佐佐木幸綱)
ガス弾の匂い残れる黒髪を洗い梳(と)かして君に逢いゆく (道浦母都子)
ハンバーガーショップの席を立ち上がるように男を捨ててしまおう (俵萬智)

 上掲の三首の歌だけ比べれば、俵の作が一番増しである。何も秀歌だと云ひたいのでなく、それほど他の二首が非道いと云ふ事である。

 俵の師匠である佐佐木幸綱の歌は、(最近では珍しくないとは云へ)文語(「淋しも」)と口語(「立っている」)がちやんぽんである。「戦わぬ男」も「昼の陽にぼうっと立っている」も、通り一遍の表現であり、歌全體としても何を云ひたいのやら判らぬ。道浦母都子は、己が携はつた反體制的政治運動を、倫理的・論理的に突き詰めようとせず(それゆゑ藝術的眞實に迫り得ず)、情緒的な小道具・大道具として利用するだけである。「炎あげ地に舞い落ちる赤旗にわが青春の落日を見る」「たましいが兵器を越えしベトナムを神話のごとく思い出すなり」なんて云ふのもある。自己陶醉に胸が惡くなる。「逢いゆく」と云ふ日本語も何だか落ち着かない。
 一體、現代の歌壇と俳壇の文學的力量を比べた場合、歌壇は相當劣勢ではなからうか。蛇笏、秋櫻子、誓子、波郷らが輩出した昭和俳壇は、芭蕉・蕪村の時代に次ぐ黄金時代を築いたとすら云へると思ふ。それに引き替へ、歌壇はどうであらうか。もつと大所の作品を擧げよう。(假名遣ひは原典のまま、漢字は正體に統一)

耳を切りしヴァン・ゴッホを思ひ孤獨を思ひ戰爭と個人をおもひて眠らず (宮柊二、昭和24年)
反戰ビラ白く投げられて散りつづく聲なき夜の群衆の上 (近藤芳美、昭和29年)

 ともに政治状況に寄り掛つた詰らぬ作である。戰爭を戰つてゐる譯でもない人間が「戰爭と個人をおもひて眠らず」などと云ふのは大嘘もよいところである。現代の短歌はなぜかくも冗舌なのであらうか。三十一文字は長過ぎるのであらうか。長過ぎるから、下らぬ政治談義や自己陶醉やを始めて仕舞ふのであらうか。(平成13年1月17日。16年4月29日修正)

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