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2004年4月29日 (木)

支那文學者の見識

 漢文の訓讀文は文語なのだから、當然、歴史的假名遣ひで書くべきである。ところが現在は、訓讀文を「現代かなづかい」で書くことの方が多い。吉川幸次郎氏が監修乃至編者を務めた「中國古典選」(朝日新聞社)、「唐詩選」(ちくま學藝文庫)はいづれも「現代かなづかい」である。吉川氏は、どこかで「訓讀文を歴史的假名遣で書く意味は無い」と云ふ主旨の事をちらつと述べてゐたと記憶するが、今、その出典を探し出せない。

 一方、集英社のシリーズ「漢詩選」の第8卷「李白」は、詩の訓讀文は勿論、本文(解説の文章)も歴史的假名遣ひで書かれてゐる。著者は、京大で吉川氏の先輩に當る青木正兒。同書の凡例に曰く、

 漢字は正體、假名は歴史的假名遣ひ。是は著者の主義であり、主張である。本文たると註たるとを問はず、一切簡體字と新假名遣を用ゐない。

 同シリーズ中、本文を歴史的假名遣ひで書いたのは、青木氏の同書だけである。訓讀文も、歴史的假名遣ひのものは皆無か、きはめて少なかつたやうである。なほ、青木氏は別の著作で、「支那」が差別語であるとの謬見に對しても反論してゐる。(平成13年1月17日)

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