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2004年4月29日 (木)

論理輕視の宿痾

 ウェブサイト「言葉 言葉 言葉
」の掲示板に、ニルヴァーナ小林だかストロング金剛だか、兎に角名前をコロコロ變へるふざけた輩が登場し、意味不明の戲言を書き散らした擧句、己が發言を逆手に取られて「阿呆」と呼ばれた事への腹いせか、私の名を騙つて掲示板を荒らし捲つたらしい。管理人の野嵜氏にはとんだ迷惑をかけて仕舞つた。

 御丁寧にも自ら「阿呆」である事を完全證明した彼(彼女?)個人の哀れむべき所業について、これ以上論ふ事はしない。以下は、現在の日本語インターネット上ないし現實日本社會における言論状況に對する一般的感想である。
 現實の全うな會議の場で、一知半解の専門用語をもつともらしく振り囘して一席ぶつた人間が、返す刀で(?)「一足す一は三」であるとか、「犬が西向きや尾も西」であるとか、凡そ非常識な事を本氣で主張したならば、忽ち失笑を買ひ、以後、決して眞面目な議論には參加させて貰へないであらう。だからこんな阿呆な事を實際に發言する人間は滅多にゐない。
 しかるにインターネット上の議論においては、「觀念の贋作」だの「價値相對主義」だのと一見高尚さうな御題目を振りかざしつつ、その傍から、「一足す一は三」的・「犬が西向きや尾も西」的な戲言・世迷言・不條理發言をやつてのけ、本格的に馬脚を現す御仁が時々、否、屡々存在する。根據薄弱な「トンデモ史觀」サイトもその類であらう。現實社會の會議と異なり、どんな馬鹿でも自由且つ氣輕に發言出來るインターネットの性質上、やむを得ない事とは云ひ條、彼ら彼女らは日本人全體の知的水準と決して無縁ではない。自戒を込めて云へば、日本人は矢張り物事を筋道立てて考へる事が甚だ苦手である。そのうへ、考へる訓練すら不足してゐると考へざるを得ない。
 専門分野における學者なら格別、一般の日本人の間では、とりわけ文學・歴史・哲學と云つた「文系」の議論において、言葉を精確に使つて論理的に考へる事を輕視・敵視する傾向すら存在する。これは現代のインターネット社會に限らず、よろづ言擧げせぬ國、日本の知的風土に骨絡みの宿痾なのかもしれぬ。
 宗教にもその傾向は顯著なのであつて、禪宗などはその典型だと思ふ。夏目漱石の小説『門』において、精神的な救ひを求めて鎌倉の禪寺の門を潛つた主人公の宗助は、老師からいきなり「父母未生以前本來の面目」を考へよと命ぜられ、「自分は腹痛で惱んでゐる。(略)その對症療法として、六づかしい數學の問題を出して、まあこれでも考へたらよからうといはれたと一般」だと(正當にも)當惑し、煩悶する。だが世話役の若い僧宜道は、この考案を説くうへで「書物を讀むのは極く惡う御座います」と讀書を排し、飽く迄己一人の直感によつて悟りを開くべきだと意見する。
 ここに描かれた禪の論理輕視的・感性重視的態度は、神の存在さへも(或は神の存在をこそ)論理的に證明せんとした聖アンセルムスやパスカルを擁するクリスト教とは全く異質・對照的である。佛教學者の袴谷憲昭氏や松本史朗氏は、論理を軽視する禪は論理を重視する正統佛教とは別物の「異端」であると迄言ひ切つてゐる。正統佛教から禪への變質は支那で起つたらしいのだが、寧ろ「言擧げ」を好まぬ我々日本人にとつてこそ、禪は眞に適した宗教なのかもしれぬ。
 文學においても又然りであつて、作家・批評家の大西巨人氏が「數學と文學とのかかはりについて一言」(『大西巨人文選4』みすず書房)において苦々しげに指摘する通り、吾國では「小學校・中學校で數學の成績が低かつたことが、あたかも詩の國・小説の世界へのパスポートである、といふかのごとき言説」が往々にして語られる。誤れる文學觀・誤れる數學觀(論理觀)の端的な表れである。大西氏は、作家の佐藤春夫に關する「中學生時代にして早く文學書を耽讀し數理系統の學課の成果は思はしくなかつた」との記述を引用したうへで、かう書く。

 この記述は佐藤春夫の文藝的弱點を如實に物語つてゐる、と私は考へる。その佐藤春夫は、日本近代文藝における屈指の存在であらう。そのことが、したがつてまた、日本近代文藝の弱點を象徴してゐる、とも私は考へる。

 論理輕視と云ふ宿痾は、「日本近代文藝」のみならず、「日本現代文藝」においても、或は、「日本現代文藝」においてこそ、(益々)顯著に違ひない。從つて、「中學生時代にして早く文學書を耽讀し、それとともに數理系統の學課にも優秀な成果を納めた」人々によつてこそ、「今明日の日本文藝は、擔はなければならない」と云ふ大西氏の主張に、必ずしも「數理系統の學課」の成績が優秀でなかつた私は、しかし強く同感する。大西氏の云ふ「文藝」は、「哲學」や「歴史學」などにも敷衍出來よう。文學も哲學も歴史も、凡そ人間の知的營爲は皆、言葉で記されるからである。而して、言葉は論理なのである。(平成12年12月7日)

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