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2004年4月28日 (水)

香西秀信氏にケンカを學ぶ

 『東大で上野千鶴子にケンカを學ぶ』(遙洋子著、筑摩書房)と云ふ本が賣れてゐるらしい。上野女史は遙洋子に向ひ、「とどめを刺す遣り方を覺えるのではなく、相手を弄ぶ遣り方を覺えて歸りなさい。さうすれば、勝負は聽衆が決めて呉れます」と講釋し、遙洋子は「本物は違ふ!」とて「鳥肌が立つた」と云ふ。馬鹿馬鹿しい。

 ウェブサイト「言葉 言葉 言葉」の作者、野嵜健秀氏が同サイトの掲示板「Word Word Word Criticism Forum」上で憤る通り、上野女史は論爭相手を愚弄し、眞劍勝負を避けつつ、「聽衆」を勝手に身方扱ひして勝つたつもりになるのが得意らしい。かう云ふのを「論爭に勝つ」とは呼ばない。
 上野女史と聞いて思ひ出す「論爭」は、十年前、朝日新聞への寄稿で「私たちの世代にとつて學園紛爭は戰爭だつた」と軽彈みにも書き、作家の曽野綾子女史にこつぴどく遣附けられた一件である。曽野女史は、「常に死の危險がつきまとふ事、そこから個人の意志では逃れられぬ事」の二つの要素が無ければ「戰爭」と呼べないと述べ、「警官は二人殉職したが、學生は危なくなれば、いつでも鬪爭を止めて家に歸ることが出來た。そんな氣楽な戰爭はどこにもない」と斷じた。これに對し上野女史が説得力ある反論をした記憶は無い。「聽衆」の一人たる私から見て、上野女史は完敗であつた。
 しかし當時の「聽衆」全員の意見を集計出來る譯でも無し、私一人に負けを宣言されたとて、上野女史には屁でもあるまい。政治家と異なり、知識人は投票によつて白黒を判定される事が無い。それゆゑ、己が良心に照らして己が主張の正しさを謙虚に吟味し、その結果を書かねばならないのだが、知的・道徳的に不誠實な知識人はそれをやらない。論爭相手を愚弄し、眞劍勝負を避け、「聽衆」を身方に附けようとするなどは政治屋の遣る事ではないか。
 「ケンカ」に強くなりたければ、他に好い本はある。例へば香西秀信(こうざい・ひでのぶ)氏の一連の著作である。香西氏は宇都宮大學教育學部助教授、專攻は修辭學及び國語科教育學。教育者向け出版社から出した著作が多い爲、一般讀者には馴染みがない名前かも知れないが、著作は教育關係者でなくとも十分理解出來る内容で、樂しく讀める。著作の一覽を擧げる。

『反論の技術』(明治圖書、平成7年)
『議論の技を學ぶ論法集』(同、平成8年)
『修辭的思考』(同、平成10年)
『論爭と「詭辯」』(丸善ライブラリー、平成11年)

 後ろの二册は文學作品や歴史に材を取つたもので、これはこれで非常に面白いが、今囘は、現代の議論文を素材に「議論に勝つ方法」を考察した初めの二册について書かう。
 香西氏は云ふ。最近、學校教育においてディベートや討論など議論領域に属する活動の重要性が指摘され、その實踐も盛んになつてきてゐる。しかし、それらの指導には大きな缺點がある。それは、議論といふ活動を體驗させることが授業の主たる目的となつてしまつてゐて、議論に勝つための具體的な技をほとんど教へられてゐないといふことである。

 意見を主張する時には、ただ言ひつぱなしではいけない、必ずそれを支へる根據をも述べなくてはならない、論證しなくてはならない――このやうなことはどの教師でも指導してゐることなのであらうが、肝心の論證の方法やその種類についてはほとんど(多くの場合には全く)教へてゐないため、生徒は無手勝流で議論することになる。これをたとへると、柔道で、大外刈や十字固めなどの個々の技を全く教へずに亂取りばかりやらせてゐるやうなものだ。多少の組み手勘は身につくかもしれないが、技術の進歩は望むべくもない。(『論法集』)

 實際に議論に強くなる爲にはどうすれば好いか。香西氏は『論法集』で、議論の基本的な型を「定義」「類似」「たとへ」「比較」「因果關係」の五種に分類し、各々の構造や效果を具體例を擧げて説明してゐる。いちいち細かく説明する餘裕は無いので、「定義」についてだけ後述するとして、後は實際に本を讀んで頂きたいが、その前に、かうした原理的な知識を血肉化する爲に、香西氏が勸める實踐的な祕訣を一つ紹介しよう。それは、日常の讀書等で出會つた議論の例を片端から収集する事である。新聞や雜誌などで讀んで面白いと思つた議論文を「將棋の定跡のやうに何百か集めておくのだ」(『技術』)。私は、香西氏が勸めるやうな、氣に入つた文章を手で書き寫したりコピーを取つたりしてノートにまとめると云つた努力はしてゐないが、本で讀んで印象に殘つた論法を想ひ出して拜借する事は多い。
 それでは香西氏自身が「面白い」と感じ、収集したと思はれる議論文はどのやうなものだらうか。それは著作の中に引用された多樣な文章を見ればわかるが、それを紹介する前に、同氏が「優れた議論文」とは何かを述べた箇所を示さう。

 蛇足ながら一言付け加へておけば、議論指導においては、教科書教材はほとんど役に立たない。なぜなら、優れた議論文は例外なく思想的・政治的に「偏つた」ものであるが、教科書に載せられた議論文は、どれも「中立」かつ「上品」で、議論文としては餘りにも「毒」のなさ過ぎるものばかりだからだ。よく高校の教科書などで、「哲學者」の書いた詰まらぬ「人生論」が、「議論文」(論説文)の例としてあげられてゐることがあるが、これは教科書編輯者の見識がないのではなく、ああいふ文章でなければ教科書に載せることができないからなのである。試みに、戰後の論壇で話題になつた文章を幾つか思ひ浮かべてみればいい。そのどれ一つとして、教科書に掲載したらまづ檢定にはパスしまいといふものばかりである。議論文といふのは、本質的に教科書とは馴染まぬ種類の文章なのだ。(『論法集』)

 確かに、自分の高校時代を想ひ返しても、教科書に載つてゐる「議論文」は毒にも藥にもならぬ詰まらぬものであつた。具體的にどのやうに詰まらぬ内容だつたかと云ふと、思ひ出せない。思ひ出せないほど詰まらぬ内容であつた。それは兔も角、「毒」のある文章を讀まねば本當の議論は學べない。インターネット上で拙い文章を書く立場となつても、卑しくも議論文を書く以上、「毒」の無い文章では書く意味が無いと思ふ。
 では、いよいよ香西氏が『論法集』に引用した主な文章の題名(または出典)と筆者名とを以下に記さう。妙に勿體ぶつたのは、讀み進む毎に、私好みの「ケンカの達人」が續々登場するのに驚いたからである。

松原正『人間通になる讀書術』
小林秀雄「川端康成」
G.K.チェスタトン『正統とは何か』
鮎川信夫『私の同時代』
百目鬼恭三郎「たつた一人の世論」
鈴木孝夫『武器としての言葉』
福田恆存「裁判ごつこ」「當用憲法論」『私の國語教室』「人格と人權」「無力の悲鳴」
村松剛「ヨット・スクールを擁護する」
長谷川三千子「『國際化』といふ言葉を再考する」
會田雄次「美の陶醉と美の科學」「バサラ――集中蕩盡のすすめ」
呉智英「アメリカ經由の共産主義」「恣意的な正義としての人權思想」「強姦魔を洋酒の廣告に使ふな」
山本夏彦「僞善は常に正義を裝ふ」

 どうです、壯觀でせう。其の他、清水幾太郎、西部邁、谷澤永一、金田一春彦、大野晋、丸山眞男といつた人達の文章が引用される。因みに、曽野綾子女史が上野女史をとつちめた「鬪爭もどき、オペラもどき」と云ふ文章も収められてゐる。
 就中、松原正氏の今は絶版になつた『人間通になる讀書術』が出て來たのには吃驚した。しかも引用されてゐる箇所は、私が同書の中でも特に愛讀し、このウェブサイトの「松原正名言集」に「愛すると云ふ事」と題して紹介した箇所と同じである。すなはち、著書『知的生活の方法』に「男も女も、十全たる知的活動を維持するには、結婚しても軽々に子供をつくるべきではないであらう」と書いた渡部昇一氏に對し、松原氏が「結婚するといふことは妻や子供を愛するといふことであり、妻子を愛するといふことは、妻子のためにおのれの『知的生活』をも犧牲にするといふことである」と批判した文章である。香西氏は松原氏のこの文章を、論法の基本型のうち「定義」の一例として擧げてゐる。「結婚する」とは「愛する」とはどういふことであるかといふ定義から反論を導いてゐるからである。曽野綾子女史が上野千鶴子女史を批判した文章も、「戰爭」とはどういふことかといふ定義から導き出されたものであり、同じ型に属すると云ふ。
 香西氏は引用文を肯定的に紹介するだけでなく、時に議論の缺陥を鋭く指摘する。例へば、「定義」の型の議論文として説得力の乏しい例として、小田實氏の「危機意識」と云ふ文章を引く。「まづ、右傾化といふときの右とは何か。これをはつきりさせようぢやないかと。既成の價値・秩序の中ではぐくまれたエライさんがもう一度強烈な力で、その價値や秩序を押しつけようとしてるのが右や」。これに對し、香西氏はかう論評を加へる。

 小田氏は、若者に「右傾化」への抵抗を呼びかける。が、その「右傾化」の「右」を、「既成の價値・秩序の中ではぐくまれたエライさん」「強烈な力で」「押しつけようとしてる」などの言葉で定義したら、「右傾化」といふものが、それこそ抵抗すべき「惡」になつてしまふのは分かり切つた話だ。(これが「右傾化」なら、私だつて抵抗する。)要するにこれは、「右傾化」とはよくないものだと言つてゐるに過ぎず、何も「はつきりさせ」てはゐない。(『論法集』)

 また、福田恆存氏が「人格と人權」で嫌煙權運動を批判した箇所について、かう指摘する。

 福田氏は、罐ピースが大好きで、酒は一滴も飲めぬといふ方である。さういふ人にとつては、確かに煙草よりも酒から受けた迷惑の方が大きいであらう。(略)福田氏は、「どちらの方が日常他人に迷惑を掛ける機會が多いか、本氣になつて考へてもらひたい」と言つてゐるが、私の學生(ほとんどが女性で、酒も煙草もやらない)が「本氣になつて考へ」た結果は、酒よりも煙草のはうが迷惑だといふ意見が壓倒的であつた。(略)福田氏は、「酒を飲み過ぎて電車の中や路上にへどを吐いたり、器物を破壞したり、婦女子に襲ひ掛かつたりするのは愛嬌があり、煙草の煙で目が痛んだり、咽んだりするのは忍び難い、人々は本氣でさう思ひ込み、嫌酒權よりはまづ嫌煙權をと考へたのか」と書いてゐる。しかし、普通の女子學生にとつて、「電車の中や路上にへどを吐いたり、器物を破壞したり、婦女子に襲ひ掛かつたり」などといふことを、直接の迷惑として經驗することはあまりないのに對して、「煙草の煙で目が痛んだり、咽んだりする」のは日常のことである。(略)したがつて、嫌煙權を批判するのに、酒の迷惑を比較として持ち出してきたのは、議論としては上策でなかつたといふことになる。これは福田恆存らしくないミスだが、かうなつてしまつたのも、自らの嗜好を基準にしてものごとを判斷したからだ。(同上)

 松原福田兩氏をはじめ、引用した文章の筆者の顏觸れを見る限り、どうも香西氏は私と讀書上の好みが似てゐるやうである。しかし當然乍ら、議論や教育に對する見識は私などより遙かに立派である。同氏は教材の「偏向」について、次のやうに、實に「毒」のある事を書いてゐる。

 補助材料として、生徒に議論文の例を與へる際には、その内容的「偏向」を氣にする必要は全くない。議論として優れてゐると思へば、管理職が目を剥くやうなものであつてもいいのである。私はかつて、ある言語教育研究者(故人)の書いた、清々しいほど「偏向」した書物を讀んだことがある。その本の中では、明晰で鋭い議論文の例はすべて左翼系の人の文章からとられ、逆に詭辯の例はみな保守系の論客の書き物から撰ばれてゐるのだ。が、私は、これでも全くかまはないと思ふ。もし、この書物に、讀者の論理的思考力・議論能力を向上させる力があるなら、それによつて向上させられた讀者は、容易にその撰擇上の「偏向」を見破るであらうからだ。逆にいへば、そのやうな讀者を育てられるかどうかが、その書物の試金石である。自らを否定する讀者を育てることによつてのみ自らが肯定されるのだ。(同上)

 本多勝一氏の『日本語の作文技術』は著者の左翼思想を宣傳するやうな例文が多いけれども、文章讀本としては優れてゐる。本多氏の他の著作がすべて「明晰で鋭い議論文」かどうかはそれこそ議論が分かれようが、左翼にも、例へば國語學者の三浦つとむ氏や作家・批評家の大西巨人氏のやうに、殆ど常に「明晰で鋭い議論文」を書く人がゐる事は認めざるを得ない。逆に、「保守系の論客」にも杜撰な文章を綴る人間はゐる。さらに一方で、上野千鶴子女史のやうに、文章の上手下手以前に、論爭における知的・道徳的眞摯を全然辨へない左翼や保守派がゐる。いやいや、かう云ふ手合の綴る文章が「明晰で鋭い」事などあり得まい。
 さて、そろそろお仕舞ひにするが、實は、香西氏はこんな事も書いてゐる。自分の本で「議論能力を向上させることに成功したとしても、それだけでは現實の議論で勝てるやうになるとは限らない」。おやおや、これでは看板に僞り有りではないか。しかしさうでは無いのである。同氏の著作で扱つた議論はルールのある格鬪技のやうなものであるが、現實の議論は「必ず場外亂鬪になるからだ」。
 香西氏は、『技術』の「あとがきにかへて」の中で、「場外亂鬪」の例を二つ擧げる。一つは、「かたつむり論法」と呼ばれるもので、相手の意見がどこから見ても正論で、まともに反論しては勝ち目の無い場合、逆にその提案を襃める。「實に素晴らしい提案だ。しかし、實現を急いで、拙速になつてしまつては折角の素晴らしい提案が臺無しになつてしまふ。もう少し皆でアイディアを出し合つて、よりすぐれたものに練り直して行かうではないか」――例へばこのやうな事を云つて、計畫の實行を先送りにしてゆき、あわよくばそのまま闇に葬り去らうとするのである。
 二つ目は、答へたくない質問に出くはした場合、「お答へします」と云つて、質問の内容とは餘り關係の無い事柄を、單調な抑揚で、牛の尿のやうにだらだらと答へる。質問者が苛立つて再度質問しても、「分かりました」と答へて、今度は質問の内容と多少關係無くはないが、極めて迂遠なところから、また長々と説明を始めるのである。このやうな事を繰返してゐるうちに、質問者は疲れ、馬鹿馬鹿しくなり、それ以上質問する氣がなくなつてしまふ。たとへ質問を續けようとしても、そのうちに他の「喋りたがり」が横から發言し、結局議論は違ふ方向にずれて行つてしまふ――。
 かうした「場外亂鬪」の「技術」にも習熟しない限り、現實の議論には強くなれない。「だから、議論に強くなるとは、嫌なことなのだ」と香西氏は云ふ。インターネットの世界でも、「場外亂鬪」の技だけには長けた「論客」は少なくない。彼等を懲らしめる爲、こちらも對抗して「場外亂鬪」の手練手管を身につけるべきだらうか。私はそこまでやる氣力は無い。しかし、せめてもの事、リング上では恥づかしくない鬪ひが出來るやうになりたいものである。(平成12年8月28日)

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