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2004年4月28日 (水)

英語公用語化論の迷妄

 小渕恵三氏がまだ首相在任中であつた今年一月、我國の將來像に關する議論を依頼されてゐた私的諮問機関「二十一世紀日本の構想」懇談會が、最終報告の一環として、「英語の公用語化」を進言した。小渕氏が病に倒れ、首相の座を追はれた今となつては、もはや話題に上る氣配さへ無いやうであり、今更論ふのも間が拔けて見えるかも知れぬ。

 しかし英語公用語化論は、日本の知識人の國語に對する無理解と知的怠惰とを示す證左であり、知識人が知的に怠惰ならば、どうせいづれ同じやうな愚論が持ち出されるに決まつてゐるから、ここで愚論の愚論たるゆゑんを論ずるのも無駄でないと思ふ。一月十九日付朝日新聞朝刊によると、懇談會最終報告のうち、英語公用語化に關する部分は以下の通りである。

 【國際對話能力】社會人全員が實用英語を使ひこなせるなど具體的な目標を設定する。公的機關の刊行物などは和英兩語での作成を義務づけるとともに、長期的には英語を第二公用語とすることを議論する。
 
 このうち「公的機關の刊行物などは和英兩語での作成を義務づける」と云ふ件は、外國人が日本を理解する一助になる事であり、基本的に異論は無い。翻譯作業にそれなりの費用が必要であらうが、仕方有るまい。「支那語や朝鮮語の譯文はいらないのか」と云ふ問題はあるが、最初の一言語が英語である事に、まあ依存は無いであらう。問題はそれ以外の部分、すなはち、「社會人全員が實用英語を使ひこなせるなど具體的な目標を設定する」事、及び「長期的には英語を第二公用語とすることを議論する」と云ふ件である。この二つは結局同じ方向、すなはち、英語の公用語化、或いはそれに先立つ段階を指してゐる。
 さて、「英語公用語化」の是非を論ずる場合、日本人の誰もがまづ考へるのは、「公用語とは何か」と云ふ事であらう。ところが最終報告發表から三箇月後の四月四日、朝日新聞朝刊が掲載したインタヴュー記事で、「そもそも『公用語』とは何でせう」と云ふ記者の質問に對し、懇談會の座長である河合隼雄氏はかう答へてゐるのである。

 報告書には『公用語をどう考へるか』といふ規定はあへて付けなかつた。それも論議すればいい、といふ譯だ。ただ、たとへば日本語による公文書類の副文として、國際的に通用するよう英語文を添へることなどが考へられる。翻譯不可能なあいまいなお役所用語は排除され、的確で分かりやすい日本語になるだらう、と期待してゐる。情報通信の言語としての英語は身につけたい。子どもの方が先に行つてゐる。遠い將來を考へる必要がある。

 驚くべし、「英語の第二公用語化を議論すべし」と首相に進言した當の御本人が、肝心の「公用語」の意味を示してゐないのである。河合氏は「規定はあへて付けなかつた」「それも論議すればいい」などと大見得を切つてゐるが、ここには誤魔化しが有る。成程、歴史が淺く意味が不安定な言葉であれば、まづ定義そのものから議論を始めるべきであらう。しかし「公用語」は少なくも國際社會では歴史のある言葉であり、意味は安定してゐる。『世界民族問題事典』(平凡社)で田中克彦氏はかう説明してゐる。

 公用語 Amtssprache(ドイツ)/official language(英)/langue officielle(フランス) 官公廳(ドイツ語でアムトAmt、英語・フランス語でオフィスoffice)で用ゐるやう定めた言語。多言語國家あるいは植民地では、役所、法廷、軍隊、學校、郵便、鐵道、銀行などの公的機関で、すべての言語を用ゐることはできないので、特定の有力言語だけに限定して使用する。公用語は憲法、それに準ずる法律によつて指定される。(以下略)

 これが國際的に通用する「公用語」の意味である。詰まり、日本政府が諸外國に向ひ、「我國は英語を第二公用語にしました」と宣言したならば、外國人は、日本の「役所、法廷、軍隊、學校、郵便、鐵道、銀行などの公的機関」で英語を使つて用が足せると考へる。市役所の窓口係に英會話で相談事をしたり、裁判所に英文の証拠書類を提出したり、手紙の宛先を英字で書いたり出來ると信ずるだらうし、「公用語」と謳ふ以上、さう取られても文句は言へまい。さらに、もし憲法で公用語を定めるとなれば、憲法を改正しなければならなくなる。(憲法の條文も英譯が必要になるが、これだけは簡單だ。日本國憲法はもともと英語で書かれたのだから。)
 無論、河合氏をはじめとする懇談會のメンバーは、さすがにそこまでやると言ひ切る度胸が無かつたに相違ない。だからこそ、「長期的には」などと屁つぴり腰で時間的な留保を附け加へたうへ、公用語の意味も曖昧なまま放置したのである。公用語の定義を「議論すればいい」とは、すなはち、政府が實現可能な、ハードルの低い「公用語」の定義をいづれでつち上げると云ふ意味であらう。
 しかし、さうしてでつち上げた「公用語」の定義なんぞ、国際社會に通用しない代物であるのは確實で、いたづらに混亂を招いた揚句、諸外國から失笑を買ふのが關の山である。河合氏が例に擧げた、「日本語による公文書類の副文として、國際的に通用するよう英語文を添へる」に異論は無いが、その程度の事で、外國から「公用語」だと認めて貰へる筈が無い。それなら初めから、「公用語」などと云ふ虚假脅しの言葉を遣はぬが好いのである。河合氏は、日本人が「國際的に通用」しない事に氣を揉んで見せるが、他人に説教を垂れる前に、己が「國際感覺」の缺如をまづ改めるが宜しい。
 實際、「英語公用語化論」は既に外國人の笑ひ物になつてゐる。「ニューズウィーク日本版」四月十二日號のコラムで、コロンビア大學教授のキャロル・グラック女史はかう書いた。

 英語を使ふ人々が「あいまい」ではないと本氣で信じてゐるのだらうか。ウィンストン・チャーチルであれ福澤諭吉であれ、もし立場がはつきりせず思考が支離滅裂だつたら、どんな言語を話しても理解されなかつただらう。(中略)日本のやうな單一言語の國、つまり日常生活で英語を使はない國では、英語は第二公用語ではなく、あくまで外國語として學ばなくてはならない。そして中學生以上にならなければ、外國語を學ぶために十分な能力が育たない。

 また、「週間文春」三月三十日號で、多國語に堪能な數學者のピーター・フランクル氏は、「國中で日本語が完璧に通じる以上、第二公用語の必要性など少しもない」と斷言し、具體的な數字を擧げてかう批判してゐる。

 一年間に海外へ行く日本人の數が、千五百萬人。全人口の八分の一です。單純に考へると、一人の日本人は平均八年に一度しか海外へ行かないことになる。八十歳まで生きるとして、一人平均生涯に十囘です。また總理府の調べでは、海外で過ごす日數は平均七日間。飛行機の中の一泊も入れてですよ(笑)。/つまり十囘×七日で、平均的な日本人が一生のうち海外で過ごす日數は、たつた七十日といふ計算になります。しかも中國や韓國など、英語圈でない國も含めて、です。/たつた七十日のために、なぜそこまで必死になつて、英語を話せるやうになりたいのでせうか。

 「日本人は同じアジア人と比べても英語が下手」と危機感を煽る論據によく引き合ひに出される英語檢定試驗、TOEFLの成績の見方についても、フランクル氏は「完全に數字の讀み間違ひ」と指摘する。

 一位のフィリピンの受驗者數は、わづか九十二名にすぎません。三位のスリランカも五十七名。ここからわかるのは、兩國の受驗生は、ほんの一握りのエリートだけだといふことです。/ところが日本の受驗生は、十萬四百五十三名です。ぼくの知り合ひの小學六年生の女の子でさへ受けてゐて、『去年より點が上がつた』と喜んでゐる。(中略)上位一萬人だけの成績なら、日本はむしろトップレベルのはずですよ。だつて年に一萬人以上が、アメリカの大學へ留學してるんですからね。

 企業などでは、確かに國境を越えた人の移動は激しくなつてゐるし、仕事で英語を使ふ社會人の數も使ふ機會も増えてゐるであらう。それでも、「二十一世紀日本の構想」懇談會が進言した如く、「社會人全員」が英語を「使ひこなせる」やうにする必要など有りはしない。ましてや、その爲に小學校から英語を教へる事など百害有つて一利無い。フランクル氏の發言をもう一箇所だけ引かう。

 2002年から小中學校は週休二日になつて、授業時間が全體として減る。そんな状況で英語を増やせば、國語とか數學、理科などの時間がさらに減つていきます。/戰後、日本が技術大國になれたのは、數學とか理科の教育レベルがアメリカやヨーロッパ諸國より高かつたからです。(中略)/一般の人にとつて生活に必要なのは、英語で話ができることではないんです。まして、いつ使ふかわからない”身近な英單語”の丸暗記ではない。むしろ日本語の力を磨くことこそ、先ではないでせうか。英語を半端に勉強すると、日本語のレベルが落ちるだけなんです。

 外國人からこれだけ堂々たる正論を聞かされると、日本人として身の置き所が無い。フランクル氏の健全な言語觀・教育觀に感心して少し深入りし過ぎたから、同胞たる河合隼雄氏の發言の後半部分も早足で斬つておかう。官廳の文書に英文を添へたからといつて、「翻譯不可能なあいまいなお役所用語は排除され」るとは限らないし、抑々、「的確で分かりやすい日本語」を役人に書かせたければ、最初から明晰な日本語を書くやう指導すれば濟む。英語に仲立を頼む必要など無い。また、「子どもの方が先に行つてゐる」のであれば、何故、「二十一世紀日本の構想」懇談會の委員に子供を入れなかつたのであらうか。と云ふのは勿論冗談だが、子供に迎合する大人は非常に見苦しいものである。
 最後に、學ぶべき英語を「實用英語」とする事の輕薄について觸れておく。大體、「實用英語」とは何であらうか。これも懇談會が定義を避けてゐるから好く分からないが、アメリカ企業の幹部として通用するやうな高度な「實用英語」を、日本の「社會人全員」が身に附けられる筈が無いから、これはきつと、外國人相手に道案内したり、電車の時刻を教へたりする程度の事であらう。だがその程度の英語を日本人全員が使へるからと言つて、何の意味があるのか。
 P.G.ハマトンは『知的生活』(講談社學術文庫)の中でかう述べてゐる。

 汽車の發車時刻を四ヵ國語か五ヵ國語で教へられる多國語を話す給仕がゐてくれれば、社交界ではたいへん便利ですが、しかしいくら數ヵ國語で汽車の時刻を言へても、それで當の給仕自身の知性が進歩したわけでもなんでもありません。何ヵ國語で言はうと、所詮汽車の時刻表には相も變はらぬこまごまとした事實しか載つてゐないのですから。眞の教養とは、思考力を練り、その高貴な能力の活動源となる材料を提供するものでなければなりません。(渡部昇一、下谷和幸譯)

 ハマトンの言葉を捩つて言へば、「いくら英語で電車の時刻や道順を言へても、それで日本人の知性が進歩する譯でも何でもありません」。私は「實用英語」が不要と言つてゐるのでは無い。各人の必要に應じて英會話學校なりテレビ講座なりで勉強すべきである。中學や高校で「實用英語」を教へる事も或る程度は必要かもしれない。しかし公教育の場で、ハマトンが云ふ「眞の教養」につながらないやうな「實用英語」ばかりに時間を費やす事には斷じて反對である。
 言葉は商賣の手段でもあるが、言葉を商賣の手段としか見ない商賣人は、結局、商賣でも大した成功は出來ないであらう。相手の文化に無知な商賣人は、顧客の信頼を得る事など望み薄だからである。アメリカやイギリスの精神的支柱が理解出來なければ、小さな商賣は兔も角、大きな商賣や、ましてや外交や軍事的協力など出來る筈が無い。私は何も、中學校で英文學の講義をやれと云ふのではない。「Yes」と「はい」との違ひ一つですら、日本と英語圈との物の考へ方の相違に子供の目を開かせる事は出來る筈である。
 文化への意識を缺いた淺薄な「實用英語」教育しか受けない人間に、「二十一世紀」の日本を擔ふ事など到底無理である。英語公用語化論は、言葉を商賣の手段としてしか見ない日本人の底の淺い文化觀を、世界中に宣傳する恥なのだ。(平成12年5月8日)

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