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2004年4月28日 (水)

太陽と十字架と

 幸田露伴は短篇小説「幻談」の冒頭で、マッターホルン初登頂で名高いウィンパー一行の遭難について、不氣味な話を記してゐる。マッターホルン征服の帰途、四人が誤つて絶壁から墜落した。殘つた四人が命からがら、幾らか危險の少ない處まで下りて來ると、遠くの空に大きな十字架が二つ、ありありと見えたと云ふ。

 「西洋諸國の人にとつては東洋の我々が思ふのとは違つた感情を持つところの十字架」と露伴は書いた。西洋由來のデザインが溢れる現代の日本では、露伴のやうに十字架を異國のものとして意識する事はもはや殆ど無い。しかし西洋では、人々の宗教心は多少衰へたとは云へ、現在でも十字架はクリストの死と復活を象徴する聖なる印である。
 八月一日の建國記念日にかけて、赤地に白十字のスイス國旗を見かける機会が普段にも増して多かつた。スイスでは祝日に限らず、日頃から公的な場所などで國旗を掲げる習慣が定着してゐる。國際赤十字が創立者アンリ・デュナンの祖國スイスに敬意を表し、赤白を反転した旗を記章にしたのは有名である。イスラム教國の赤十字社は、赤十字の旗を避けて赤い三日月の旗を使ふ。組織の名前も正式には「赤新月社」と云ふ。
 國歌「スイス讃歌」も発祥はクリスト教で、もとは教会で歌ふ讚美歌だつた。1981年に正式に國歌となつた。多言語國家スイスらしく、ドイツ語、フランス語、イタリア語、それにロマンシュ語の二つの方言を含む五種類の言葉で歌詞が記されてゐる。國旗に比べると浸透度は今一つで、同じ言葉を話す人同士でも、聲を合はせて歌う機會は少ないと云ふ。スイスは連邦國家であるため、スイス人は國よりカントン(州)への帰属意識が強いとも云はれる。それでも、同じメロディーと歌詞の内容とによつて、國民は一體感を得ることが出來る。
 もともと別々の國だつた二十六の州を一つにまとめてゆくのは難しい仕事に違ひない。地方によつて言葉も習慣も異なる。國の象徴として何がふさはしいか。現在の國旗、國歌が示すやうに、それはクリスト教だつた。カトリック、プロテスタントなど宗派の違ひはあつても、大半の人がクリストを信ずる點は同じである。だから十字架が國の象徴たり得る。讚美歌を國歌に轉用出來る。
 ところで、日本では、「日の丸」「君が代」が軍國主義を聯想させ、國旗・國歌として扱ふ事は不適切だと云ふ意見が戰後長らく存在し、最近は法制化の議論を受けて一段と強まつてゐる。だが、過去の日本が軍國主義だつたとして、それを理由に國旗や國歌を變へなければならないものだらうか。スイスの思想家カール・ヒルティは、『眠られぬ夜のために』の中で、「最も偉大な、しかも同時に、一般にわかりやすい思想は、現在では、キリスト教の形をとる神の信仰である」と自信に滿ちて述べてゐる。しかし、ヒルティが人生の導きとして信奉する聖書には以下のやうな、われわれ異教徒にとつては身の毛もよだつ言葉が収められてゐる。(句讀點を補つた)

 是において民よばはり祭司喇叭(らつぱ)を吹きならしけるが、民喇叭の聲をきくと、齊(ひと)しくみな大聲を擧げて呼ばはりしかば、石垣崩れおちぬ。斯りしかば、民おのおの直ちに邑(まち)にのぼりいりて邑を攻取り、邑にある者は男女少(わか)きもの老いたるものの區別(わかち)なく盡くこれを刄にかけて滅ぼし且牛羊驢馬にまで及ぼせり」(舊約・ヨシュア記第六章)
臆するもの、信ぜぬもの、憎むべきもの、人を殺すもの、淫行のもの、咒術(まじわざ)をなすもの、偶像を拜するもの者および凡て僞る者は、火と硫黄との燃ゆる池にて其の報を受くべし、これ第二の死なり」(新約・ヨハネの黙示録第二十一章)

 モーセの後繼者ヨシュアらは、神が約束した地を我が物とするため、異教徒を老若男女の區別なく皆殺しにする。家畜まで殺す。黙示録は、クリストを信じず、異教の偶像を拜む輩は地獄に堕ちよと呪ひの言葉を投げつける。アウグスティヌス、ルター、カルヴィンといつた偉大なクリスト教指導者たちは例外無く、異教を激しく攻撃してゐる。クリスト教の榮光と非情は表裏一體なのだ。クリストの教へで救はれた人は數多いだらうが、一方で、十字軍、魔女裁判など、クリストの名の下に奪はれた生命の數は、「日の丸」や「君が代」の比ではなからう。
 しかし、だからと言つて、スイスで「血塗られたおぞましい十字架の國旗を廃止すべきだ」「他宗教を差別するクリスト教の讚美歌は國歌に不適切」といつた意見が高まつてゐるとは聞いた事がない。スイス政府は「スイス讚歌」を正式に國歌に定める前、二十年にもわたつて国民に新國歌を募つたが、代案は得られなかつた。國民の大半が「スイス讃歌」が國歌として恥づかしくないと考へたからである。
 社会的不祥事を引き起こした企業が、「反省の一環として社章と社歌を改める」などと言へば、物笑ひになるだけであらう。しかし日本ではそのやうな議論が堂々と通用してゐる。「日の丸」は太陽を圖案化したものに過ぎない。善惡とは無關係のはずである。太陽が原因で人を殺すのはカミュの小説の主人公くらゐのものであらう。
 「君が代」は天皇をたたへる歌だからいけないと云ふ。だが、日本國憲法は天皇を「日本國の象徴であり日本國民統合の象徴」と定める。たたへていけない理由はなからう。議会制民主主義の本場であるイギリスでも王室を堂々と國歌でたたへてゐる。皇室や王室といふ存在そのものが許せないといふ人もゐるが、そこまで行くと、もはや話は別である。
 「日の丸」「君が代」は國民の合意をもとに定められたものでないので、國民投票で新たな國旗・國歌を決めるべしと云ふ聲もある。特に、「君が代」の歌詞の内容は時代にそぐはないと云ふ。現代の憲法に明記された天皇が「時代にそぐはない」とは思はないが、百歩譲つて、時代にそぐはないと云ふ理由で國歌を變へるとしたら、極端に言へば數年に一度、新しい國歌を作るといふ事にならないか。それはもはや國歌とは呼べないだらう。
 スイスの古い街竝みを見て思ふのは、静かに積み重ねられた時間だけがもたらす美しさである。變はらないと云ふ事の掛け替への無さである。「あらためて益なき事は、あらためぬをよしとするなり。」兼好法師は『徒然草』に書いた。變へないで濟む事は變へない方が好い。それは國の象徴についても言へることではないか。

(平成12年4月14日再録。平成11年に書き、スイスの日本人關係の會報に寄稿した文章。表記を改め、内容も若干手直しした)

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