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2004年4月28日 (水)

小西甚一氏の愉快な惡戯

 國語辭典『廣辭苑』(岩波書店)の序文を、編者で國語學者の新村出は、或る特異な文體で書いてゐる。勘の好い人なら、全部で四頁程の文章の中に、普通なら頻用される「~してゐる」「~のやうに」と云ふ表現が一度も出て來ない事に氣づくだらう。實はこの文章は、歴史的假名遣で書いても、現代假名遣で書いても、全く同じ形になるやうに書かれてゐる。

 新村は多くの不合理を抱へる現代假名遣に批判的で、『廣辭苑』の序文も本來は歴史的假名遣で書きたかつた。しかし現實には商業上の理由により不可能である。そこでささやかな抵抗として、このやうな「一種のトリック文」を考案したのである。

 新村出の反骨精神を示す上記の插話を、私は呉智英氏の本(『讀書家の新技術』と『知の収穫』)を讀んで知つた。インターネット上では中村義勝氏の『電腦正統記』で呉氏の文章が紹介されてゐるから、御存知の方も多いかもしれない。私ですか? 私はそもそも『廣辭苑』の序文なんて讀んだ事が無いし、たとへ讀んでもボーッとして絶對に氣づかない事をお請け合ひする。上で「勘の好い人なら氣づくだらう」と書いたのは、呉氏が本(『知の収穫』)にさう書いてゐたから引き寫した迄で、私が氣づいたと云ふ意味では御座いません。

 それはさて措き、四頁程度の文章でさへ、「歴史的假名遣で書いても、現代假名遣で書いても、全く同じ形になるやうに」書く事は相當苦勞である事は想像に難くない。ところが、本を丸々一冊、文庫本で四百頁近くをこの方法で書上げると云ふ”快擧”をやつてのけた人がゐる。國文學者の小西甚一氏である。

 小西氏の『俳句の世界――發生から現代まで――』は昭和二十七年に研究社出版から初版が出て、五十六年に改訂版、平成七年に講談社學術文庫に入つた。私の手元にあるのは文庫版である。このやうな特殊な表記(但し促音拗音は小さい字。俳句等の引用は當然歴史的假名遣)で書くに至つた動機を、同氏は「學術文庫版あとがき」でかう説明してゐる。

 事の次第は、わたくしの論文「古今集的表現の成立」を『日本學士院紀要』第七卷第三號(昭和二十六年十一月)に發表させていただいた所から始まる。わたくしの原稿は「歴史的かなづかひ」で書いてあったのだが、刊行された紀要では「現代かなづかい」に改めてある。本人に無斷で表記を改めるとは、日本國憲法第十九條および第二十一條への違反ではないか――と學士院の事務局に談判してはみたけれど、お役所の論理はベルリンの壁よりも厚かった。そこで、また『日本學士院紀要』第九卷第二號(昭和二十六年七月)に論文「有心體私見」を出していただいた際は、最初から「假名づかひ」にいっさい關係なしの原稿を提出することにしたわけである。(中略)同じころ『俳句――發生より現代まで――』(木村註:『俳句の世界』の初版時の題名)の執筆を依頼されたので、右の方式が單行本でもやれるものかどうか、實險してみよう――と酔狂な遊びを試みた結果が、本書獨特の表記法にほかならない。

 小西氏は「酔狂な遊び」と控へめに書いてゐるが、新村出と同じ強烈な反骨精神を讀み取つていただけると思ふ。愉快かつ壯大な惡戲と呼んでも好いだらう。

 さて、この邊で小西氏の「愉快かつ壯大な惡戲」を具體的に御紹介したいが、何せ、「歴史的假名遣で書いても、現代假名遣で書いても、全く同じ形」の文章だから、ただ引用しただけでは面白味が傳はらない。そこで、「私ならここはかう書くだらう」と云ふ註釋を文中に[ ]で適宜插入し、小西氏がいかに巧妙に歴史的假名遣獨特の表記を避けてゐるか示してみよう。以下は山口誓子を論じた箇所(314~315頁)から採つた。なほ、促音拗音は原文の小さい字をその儘引く。

 この新しみへの積極性は、(高濱)虚子をして「邊塞に武を行(や)る征虜大將軍」と歎ぜしめた。「誰も入ったことのない原始林に斧をうちこむ開拓者」とでも言ってほしかったね[言ふべきだつたらう]。誓子が「新しい現實」といったのは[誓子が云ふ「新しい現實」とは]、おもに素材をさす。(中略)俳句では御穩居的な花鳥諷詠しかできないものだと觀念しておいでになった[觀念してゐた]當時の人びとは、脚もとが地震のごとく[地震のやうに]搖れるのを感覺なさったに相違ない[違ひない]。(中略)その視覺がどんな[どのやうな]ものであるかは、用語の特異さを見るだけでも、たいてい想像がつくはず[つくだらう]。(中略)この敏感にして潔癖なる漢字の選擇も、誓子の神經が尋常でないことをものがたる[ものがたつてゐる]。當今の大學生では、手も足も出ませんね[出ないだらう、出ないでせう]。(中略)近代性をめざす誓子が、ひどく古いことばをふり廻すのは、なんか矛盾みたい[矛盾のやう]だが、けっして矛盾ではない。

 どうです、見事な物でせう。一讀してまづ氣がつくのは、「言ってほしかったね」だとか、「手も足も出ませんね」だとか云ふ調子で、すなはち、話し言葉で書かれてゐる點である。この本は、學生を相手にした講義ノートが元になつてをり、その口調を意識的に文章に殘してある。これが特殊な表記で本を丸々一冊も書けた最大の秘密であらう。しかしそれにしても、實にうまく逃げてゐる。

 小西氏の偉い所は、かう云ふ特殊な文體で書いても、決して文意が不明瞭になつたり文章が不自然になつたりしない點である。むしろ、我々も「~と思ふ」とか「~と云ふ」とか云ふ言葉は文章で出來るだけ使はない方が冗長にならなくて好ましい(と言ひながら、上で早速「とか云ふ」と使つて仕舞つた)し、「~してゐる」と云ふ表現も、成るべく「~する」と終止形や聯體形にした方が簡潔である。獨特の話し言葉は、名講義を間近に聽くやうな好い味を釀し出してゐる。文章の眞の達人と言はねばならぬ。

 勿論、本の内容そのものも面白く、爲になる。小西氏の俳句論を正面から論ふ能力は無いので、少し脇道にそれた處を主に、私なりに感心したり思はずにんまりしたりした箇所を幾つか御紹介しよう。

 まづ、「廣島の夜陰死にたる松立てり」と云ふ句を批評して。

 作品は、そのとき限りのものではない。幾百年後の人にも、生きいきとした感動をよびおこすものでありたい。それが、すべての作家の願望であるはず。ところで、この「廣島」は、幾百年後でも昭和二十年と同程度のなまなましさを持ちうるかどうか。疑問である。そこへゆくと、季節に結びついた感覺は、幾百年を隔てようとも、それほど變るものではない。それが、季語の存在理由ではないか。(28頁)

 次に、芭蕉を學ぶ事について。

 なに、そんな難かしい理屈はわからない――、それは弱りましたな。何しろ芭蕉は俳諧史のエヴェレストなんですからね。骨は折れますよ。しかし、骨を折らずにこの偉人を理解しようなんて心がけは、そもそも乞食根性ですよ。ふところ手では、何も食べられません。もっとも、ポカンと口をあいてれば、なんでも食べさせてあげるといった式の教授法を振り廻す民主教育學者もありますが、そんなうまい話を信用してはいけませんね。かりにそれが有效だとしたところで、そんなことばかりで育った子どもは、大學を出るころ何をする元氣も無くなり、人生をトボトボ送るほかなくなりますよ。(116頁)

 「俗」について。

 これまでの表現に足をとめず、常に「新しみ」を追求してゆくのは、はじめにいった「俗」の精神にほかならない。が、俗には、いろいろある。俗っぽい俗もあれば、純眞な俗もある。ニュー・ルックとかなんとか、だいたいカタカナで表記される種類の流行は俗っぽい俗の代表だが、まだ他に實例が要るなら、原宿や六本木でも歩いてごらんなさい。あさましい俗がいくらでも目につく。こんな俗は、どんどん消えてゆく泡みたいな俗で、その中から不易なるものが生まれることは、ぜったいありません。不易が生まれるのは、もっと高い俗である。(146頁)

 芭蕉が住んだ幻住庵を訪ねた時の事。

 幻住庵に行ってみたのは何十年か前ですが、雨戸も柱もいっぱいの落書でして、平和憲法で自由を保障された文化國家の実態を見せつけられました。(149頁)

 こんな插話もある。

 三島由紀夫は、(山口誓子と)同じく法學部の出身なのだが、わたくしに「いや、刑事訴訟法とは、美しい學問ですよ。あらゆる學問のなかで、たぶん、いちばん美しい」と反論したことがある。かなりウィスキイの入った後の話だから、どこまで正気で言ったのか確かでないけれど(以下略、313頁)

 最後に、現代の俳壇に關聯して。

 四十年前に草田男・楸邨・波郷の苦心して生み出した多くの句は、いまの群小作者たちでも樂に作れるものとなった。まして元祿期や天明期の俳壇にいたっては、問題にならない。(中略)それほど、現代の技術水準は向上した。しかし、表現技術の向上と、それが人を感動させるかどうかとは、別の問題に属する。(366頁)

 以上紹介した他にも、「中國」と云ふ言葉を使はず「シナ」と書いたり、固有名詞は正漢字で表記したりと、随所に小西氏の見識が表れてゐる。小著だが、西洋文學理論にも通じた同氏の力量が發揮された、甚だ有益な書物であり、一讀を是非お勸めしたい。(小西氏の壯大な惡戲はとても眞似出來ないが、私も上の最後の一文でささやかな遊びを試みた)

追記:小西氏は『俳句の世界』が文庫になるまでの四十三年間、表記の種明かしをしなかつた。ちつぽけな「遊び」すら書いた傍から喋りたくなる野暮な私とは大違ひの、粋な人である。(平成12年4月8日)

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