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2004年4月27日 (火)

松原正名言集 考へるといふ事

 私はかつて伊藤仁齋について語つて、考へるといふ事は「對待」するものの間の「往來通行」だと書いた事がある(『知的怠惰の時代』)。人間は「考へる葦」であり、善と惡、美と醜、肯定と否定といつた「兩極の間を往來」して止まぬのである。しかるにさういふ事が、知的に怠惰な知識人にはどうしても理解出來ぬらしい。(中略)永井陽之助氏の場合、或る時は黒と言ひ、或る時は白と言ひ、黒と言ふ時は白を、白と言ふ時は黒を意識しない。それはいづれか一方の極まで到らぬ思考の不徹底のせゐなのである。(『戰爭は無くならない』 地球社 135頁)

 英語のradicalといふ單語は、「根本的な」とも「過激な」とも譯される。西洋人にとつて物事を根本的に考へるとは、即ち、過激に考へる事なのである。

 日本人も同じ筈である。しかるに仁齋と異なり、現代の日本人は議論をする時に極論を嫌ふ。「極端な事を言ふな」としかめ面をするか、奇を衒つた目立ちたがり屋と冷笑するかのどちらかであらう。何せ、私がある處で經驗した事實だが、「日本で兵役の義務が復活したら」といふ程度の假定に對してすら、「そんな事はあつてはならない。考へるべきでない」などと「反論」する御仁もゐる世の中である。

 無論、奇を衒ふ爲だけの極論は唾棄すべきである。極論だから正しいとは限らない。また、中庸を得た意見が總て詰まらぬなどと言ふつもりもない。中庸に辿り着く前に、「兩極の間を往來」する知的努力をしたかどうかが肝要なのである。

 松原氏が言ふ「考へる葦」云々は、言ふまでもなく、パスカルの言葉を引いたものである。パスカルは『パンセ』のある斷章で、民衆の意見は虚しいと述べた後で、その意見を自ら否定して見せ、さらにその否定を再び否定して見せる。この斷章は「正から反への絶えざる轉換」と題されてゐる。まさに「兩極の間を往來」する思考である。「庶民」は美しいが「大衆」は醜い、と單純に割切つてみせる西部邁氏に比べ、パスカルがはるかに知的に眞摯であつた事は疑ひない。

 山崎闇齋は弟子達に向ひ、「孔子が大將となり、孟子が副將となつて、日本を攻めて來たならどうする」と問うたといふ。「堂々と迎へ撃つのが孔孟の道に從ふ事である」といふのが闇齋自身の答であつたが、その結論の當否は暫く措く。それよりも、仁齋と云ひ闇齋と云ひ、封建社會の江戸時代に、「過激」な議論を辭さない眞摯な知識人が多かつた事實を思ふ時、言論の自由とは一體何かといふ事を私は考へずにゐられない。(平成12年3月5日)

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