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2004年4月29日 (木)

呉智英氏の思ひ出(8) 手紙

 スイスに來て二年目、すなはち平成十一年の新春である。仕事や生活がやうやく落着いたのを機に、勇を鼓し、私は呉氏に初めて手紙を書いた。宛先は、呉氏の著作を多く出してゐる双葉社編輯部氣附である。永年の愛讀者である事、「噂の眞相」への投稿を著作で紹介して貰つた事、大學時代に講演を聽いた事などを、緊張しながらも懷かしい氣持で認めた。

 その後で、呉氏の主張に對する感想と云ふ名目で、實質的には質問を以下の如く書き連ねた。字句を一部改めた以外、原文のままである。思ひ出に殘る手紙と思ひ、コピーを取つておいたのである。

 天皇制度の擁護。先生は昔、「話の特集」誌のインタヴューで「民主主義は駄目だが共和制は良い」との趣旨の事を述べられ、最近のシンポジウムでは「私は天皇制廢止論者」と明言されました。私は、T・S・エリオットや加地伸行氏が云ふやうに、人間が道徳的・文化的に生きる爲には宗教が必要であり、日本人にとつて天皇を祀り主とする「先祖教」(天皇制度)は不可缺と考へます。先生の理想とされる封建制社會の下でも天皇(王)の存在は不可缺ではないでせうか。王と云ふ「時代錯誤」な存在を缺いた社會は全く無味乾燥ではないでせうか。

 フランス革命を起源とする「人權」とは別の「人權」概念を救ひ出す必要は無いか。山路愛山は「日本の歴史に於ける人權發達の痕跡」で、皇室による日本統一以來、明治維新後に到るまで、人民が自己の存在を主張し、自己の權利を擴大して來たと説いてゐるさうです。

 「人權」の概念無くして、刑事手續における被疑者、被告の保護は可能か。

徳治主義の現代における有效性。韓非子は「五蠹篇」において、「孔子の徳は世界がこれを讚美したが、門人となつて附從つた者はわづかに七十人に過ぎなかつた」と、徳治主義の限界と法治主義の優位を説いてゐます。

 呉先生のおつしやる「封建主義」における靈魂觀。人は死後、佛教が説くやうに西方淨土に行くのか、儒教が云ふやうに消えてなくなるのか、柳田國男や平田篤胤が信じたやうに「故郷の山の高み」にとどまるのか。

 今讀返すと、隨分と不躾であるし、己が不勉強を棚に上げて答へを聽かうとする蟲の好い根性がありありである。質問の仕方が拙劣な箇所もあつた。それでも、さすがに「是非とも御返事ください」と書けるほど私の心臟は強くなかつた。勿論本音を云へば、呉氏の意見は是非知りたい。だが何と云つても先方は有名な評論家であり、こちらは一讀者に過ぎない。返事を貰へるとは期待しなかつた。歸國して、いづれまた講演でも聽く機會があれば、その時にあらためて尋ねよう――。そんな風に考へてゐた。

 ところが、呉氏は早速返事をくださつたのである。半月後、やや嵩張る航空便が屆いた。茶封筒を開くと、中には當時の最近著『ロゴスの名はロゴス』があつた。本には航空便用の薄い便箋が挾まつてをり、私の疑問に對し、簡潔だが丁寧な返事が記されてゐた。

 ここで手紙の内容を詳らかにする事は出來ないが、失禮を承知で、私の最大の疑問であつた天皇制度に關する見解だけは紹介したい。呉氏は、きつぱりと次のやうに記してゐた。

 天皇制について。民衆(近代國民國家の國民)には必要かもしれない。明治始めに作られたぐらゐだから。しかし、私には不要。(このことは最終的に、賢者・愚民問題にゆきつく)

 ここで呉氏の考へにさらに異論を述べる準備は無い。寧ろ、自戒の意味も込めて、呉氏の遠慮のない發言に反撥するであらう人たちに云つておきたい。呉氏の意見を簡單に却ける事は出來ない。たとへ知識人で無くとも、西洋近代の平等思想を一度知つて仕舞つた我々現代日本人は、御先祖樣と異り、天皇の權威を素直に認める事が極めて難しくなつてゐるからである。もう手後れかもしれないのである。その事實に眼を瞑り、安直な「尊皇節」を唱へる事は、知的怠惰に他ならない。

 呉氏の手書きの文章は、歴史的假名遣で、漢字は略字體であつた。「正字正假名がいいと思ひますが、書く時は正字は面倒なので正假名のみにしてゐます」。ここにも率直で飾らない性格が表れてゐると思ひ、私は嬉しかつた。同封された本については、「廢棄したオールナイターズのチケット代のつもりです」とあつた。

 昔と今とで、呉氏の思想に對する私の考へ方は變つて來た。だが、私は、今後も呉氏の讀者であり續けるであらう。(了) (平成13年4月29日)

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コメント

ハイエナ評論家呉智英につける薬
呉智英という「評論家」がいる。まったく「評論家」としかいいようのない俗物だ。いろいろな学術書を読んでいるが単に空理空論をもてあそぶ曲学阿声の徒でしかない。よく「チンポ」「バカ」など小学生の悪口のようなことをいって得意がる。一方マルクスを神格化するほど崇拝していかにも相手の意見にも造脂が深いようなふりを装うが、相手を攻撃する時はかならず意見を歪小する。
「観念論的で退屈」にならないように一例に絞って呉智英の欠点を批判してみる。『バカにつける薬』の『ゴルゴ13論争』がもっとも適当だ。
呉智英はまず「ゴルゴ13の超人的な体力や狙撃能力を疑う、という枝葉の批判ではない」ことわる。そのうえ原稿の1/2を潰して『汚れた金・灯篭の斧』の筋書きを要約する。呉はゴルゴがでる必要がない、という「批判」をした。「話しそのものがなりたたなくなるような欠陥」だそうだがこれこそ「枝葉の批判」ではないか。「話しそのものがなりたたなくなるような欠陥」といったらこの話を含む世界情勢を問うべきだ。
だが読者からこの批判「そのものがなりたたなくなるような欠陥」を指摘した反論がきた。ゴルゴは『汚れた金』の前編にも登場しており、ここで登場しても決しておかしくない。とか列車(ゴルゴに狙撃される)を橋の上でとめるのにはゴルゴが必要だ。これに対し呉智英の意見は急におかしくなる。さっき「ゴルゴ13の超人的な体力や狙撃能力を疑う、という枝葉の批判ではない」とことわったのにゴルゴが任務を遂行できた(狙撃に成功できた以上の内容を含む)のを「ああ、なんて運のいいことでしょう」と茶化している。
これにたいし更に二人から反論が届く。呉智英は「論破された後も、まいりましたの一言すらない」といったが「論破された」のは呉智英のほうだ。作中においてゴルゴの任務遂行可能性は100パーセントである。ゆえに重要な場面でゴルゴが登場するのには必然性がある。というものだ。さらに別の人から呉智英は任務遂行の方法しかと問題にしていない「枝葉の批判」だということも指摘された。これにたいし呉智英は柴田健治氏(内容が優秀なのでほめる意味で実名をだす。)の「ゴルゴが(失敗しても)即座に次の対応をすることは近作『テレパス』を見ても明らかである」という個所を 意図的に曲解し 「まわりくどい」といってごまかす。 ここからが呉智英の本領であって より理論の弱い 側 にはわざとあやまりいかにも健全な常識人を装う。この林氏もけっしてまちがったことをいったわけではないが、おなじく意図的に曲解された側だ。
この論争を紹介している間呉智英の態度は一貫して高圧的であり、「何がそもそも問題の本質なのか、この人やその他の投書者は、わかっていない」と相手を「バカ」あつかいしている。なにが「何がそもそも問題の本質なのか」ここであきらかにしよう。呉智英は一見保守革新を超越した思想家を気取っているが実は単なる「反・反体制思想家」である。反体制思想家のスローガンが「民主主義」なのでそれにたいする批判にならない批判をしてみたのが『封建主義その論理と情熱』である。今回これほどわけのわからない挙げ足取りに熱中してみたのも『汚れた金』がかなり反体制的だったからだ。しかしそのことは自分からは認められないのでいかにも相手を馬鹿にした態度で「バカ」を連呼していたのだ。ゴルゴキアンの柴田さんにははた迷惑だろうがこれが言論の政治的利用の実態だ。最後に呉智英はまったく無関係に啓蒙主義や民主主義を攻撃している。

投稿: ハイエナ評論家呉智英 | 2006年12月17日 (日) 13時40分

『バカにつける藥』が行方不明なので詳しいコメントは出來ませんが、呉さんは反天皇ですから、仰るやうな意味では「反・反体制」だと云ひ切れないやうに思ひます。

 論理的に正しい人が「高圧的」に見えるのはよくある事ですし、今囘の御説明だけからでは、どちらがどうとは云ひ難いですね。

投稿: 木村貴 | 2006年12月19日 (火) 00時03分

呉氏の「天皇制廃止云々」の講演は、確か「正論」誌で読みました。すでに手元に無いので、うろ覚えなのですが、司会進行役の藤岡信勝氏の、他の講演の流れ、内容、の紹介で、
「・・・××氏で、起・承・転とまいります。ただし呉さんのお話でもう一つ大きな転が来るとはおもいますが(笑)」
 のくだりは、呉氏の言論界での独自の立場を表していて、私も笑ってしまいました。
 実際その内容も、
「私は天皇制に反対である。こう言うと左派か、と思われるかもしれないが、佐幕派である」
「掲げる旗は、アカハタではなく、葵の旗かもしれない」
 ・・・つまり、歴史を問う、近代を疑うという事は、これくらい大胆な意識の転換が必要である、というような趣旨の発言をされていました。
 「天皇制廃止」のくだりをみれば、呉氏が単細胞左翼に見られる危険がありそうですね。無論そんなことは無く、「右へも左へも軽くジャブ」どころか、左右ともにラディカル(根源的)に批判を続けてきた呉氏の面目躍如(というよりいつも通り)との印象を受けました。
 以上、不正確ですが、参考までに。

投稿: 森山秀之 | 2007年2月 8日 (木) 02時14分

 どうも有難う御座います。

 仰る通り、呉さんの主張は左右どちらの陣營からも距離を置かうとする意識に於いて一貫してゐると思ひます。

 但し、先日このブログで書いたのですが、こと「自由」と云ふ觀點からは、呉さんも舊來型の左右兩翼の發想と同根の部分があります。要するに、自分の理想を達成する爲には他人(例へば企業の株主)の自由を侵しても構はないと云ふ發想です。http://kimura39.txt-nifty.com/hell/2007/01/post_b7c6.html

 舊來型の左翼右翼のみならず、呉智英をも超える思想が必要だと、僭越にも考へる今日此頃であります。

投稿: 木村貴 | 2007年2月12日 (月) 04時31分

いや、ポリューテッドゴールドは確かにゴルゴが出てくる必然性がそもそもありませんよ。
あれでゴルゴを雇おうなんて、ゴルゴもゴルゴで何であんな仕事受けちゃったのか意味不明です。
いや、ポリューテッドゴールドは面白いから名作なんだというのは別に否定も肯定もしませんが(笑)

投稿: フローリアンガイアー | 2009年10月26日 (月) 00時11分

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