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2004年4月29日 (木)

呉智英氏の思ひ出(7) 疑義

 平成十年頃だつたと思ふ。呉氏は、保守派論客によるシンポジウム(「新しい教科書をつくる會」關係だつたかもしれぬ)にゲストとして招かれた席上、「私は天皇制廢止論者である」と發言し、物議を釀した。激しい左翼批判で知られた呉氏の「反天皇發言」は、言論界では意外に受け止められたやうである。私は討論會に行かなかつたので、詳しい發言内容は知らない。しかし以前の「話の特集」のインタヴューを思ひ出し、「ああ、矢張り」と得心したのである。

 呉氏が昨今の安直なナショナリズムに與せず、しかも保守派言論人やその贊同者たる聽衆の面前で、堂々と「反天皇」の持論を開陳した事は、立派であると思ふ。それでも私は、簡單に「天皇反對」と云ひ切つて仕舞ふ事には抵抗がある。森鴎外は明治四十五年に發表した短篇小説「かのやうに」に於て、「神話と歴史とをはつきり考へ分けると同時に、先祖その外の神靈の存在は疑問になつて來るのである。さうなつた前途には恐ろしい危險が横はつてゐはすまいか」と書いた。鴎外が「神話」と書く時、天皇を念頭に置いてゐたのは確實である。私は、天皇と云ふ存在を政治的・社會的な意味で放逐して仕舞つたならば、「さうなつた前途には恐ろしい危險が横はつてゐますまいか」と懼れる。呉氏には、そのやうな危惧は無いのだらうか。

 既に少しく觸れたが、私は、松原正氏の著作に親しむやうになつて以來、呉氏との思想の相違を比較しては色々と思ひを巡らすやうになつた。松原氏は、時代を超えた道徳や文化の重要性を説きつつも、「日本は鎖國してゐた昔には戻れない」と屡々強調する。その師たる福田恆存氏も同樣の思想的立場であり、あへて亂暴を承知で呼べば、「近代化論者」である。これに對し、呉氏の「封建主義」を名稱から判斷して、「復古的」と呼ぶ事は單純すぎよう。それでも呉氏には、「歴史の時計の針を逆に戻す」事を、福田松原兩氏ほど難しいとは考へてゐないやうに見受けられる場面がある。

 第一囘で紹介した「オールナイターズから奪つた八十人の聽衆」に、こんな件りがある。呉氏は一橋大學での講演の直前、同學教授で、マルクス主義歴史學者の佐々木潤之介氏が「封建主義の復權などと云ふ不可能事を主張するとは無責任」と、強く批判してゐる事を知る。佐々木氏が來場して議論でも吹つかけて來たらどう邀撃するか。「よし、ウルトラマンのスペシウム光線でいかう」。奧の手の「スペシウム光線」とは、論戰の最後の最後に佐々木氏に放たうと心に祕めた、以下のやうな反論である。

 封建主義の復權が不可能だとおつしやるのはご自由だが、共産主義の實現にかぎつて、どうして不可能ぢやないんですか、たかが主義の復權より、もつと不可能なはずの、主義の實現を信じる歴史學者は、無責任ぢやないんですか、と。

 呉氏らしい小氣味好いレトリックである。しかし、よく考へると、この反論はやや苦しい。共産主義は、曲がりなりにも舊ソ聯や東歐諸國や現在の中華人民共和國などに於て、少なくも或程度實現した「實績」がある。だが、世界のどこにも、いまだ「封建主義革命」に成功した國もなければ、抑もそんな革命に乘出した國も無いのである。成る程、呉氏が『封建主義、その論理と情熱』で書いたやうに、イラン革命によりイスラムの神權政治が復權した。だがそのイランも今や「民主化」の壓力と無縁ではゐられず、國内で男女平等や政治的自由を求める運動が高まつてゐる。かうした世界の實情を見ると、舊い主義の「復權」が新しい主義の「實現」よりも容易だとは、おいそれと云へさうにない。

 呉氏は『封建主義者かく語りき』において、『鎖國の經濟學』の著者たる經濟學者、大崎正治氏の名を擧げ、絶讚する譯ではないが、積極的に評價した。だが資源保護の觀點から自給自足經濟の效用を説く大崎氏の主張に對しては、呉氏の弟子筋に當たる淺羽通明氏ですら、「北朝鮮の例を見よ」と『ニセ學生マニュアル』の中で批判した。不景氣でよたよたしてゐるとは云へ、まだまだ金滿國の日本が、勝手に鎖國する事を、アメリカをはじめとする諸外國が許す筈がない。鎖國してゐた昔には戻れないのである。

 呉氏自身、「封建主義」の實現が可能だと安直に信じてゐる譯ではあるまい。單純な近代否定論者でもない。數年前、「正論」誌上だつたと思ふが、「新しい歴史教科書をつくる會」の藤岡信勝氏との對談で、呉氏は「現實的には、民主主義を正しく使つて行くしかない」と云ふ意味の發言をしてゐた。呉氏と云へども、「さらば、民主主義よ」とは簡單に行かないのである。ならば、「さらば、天皇よ」とも簡單には行かないのではないか。(平成13年4月29日)

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コメント

現代人の論語第四十二講 儒の起原177頁で「しかし、それにしては、「儒」は奇妙な熟語を作る.「傑儒(こびと)」である。見世物にされ覇りの対象となったこびとと、漢代以後二干年に亙って国家イデオロギーとなった儒教と、どうつながるのだろうか。このつながり亀、前講と同じように、民俗学や宗教学といった経学外の知見によって初めて理解できる。すなわち、異形であることによって世俗秩序外の存在とされた人たち走、かえって世俗的な王に助言できるというシステムの存在である。豊臣秀吉に仕えた曾呂秋新左衛門を思い浮かぺればいい。新左衛門は異形ではなかヴたが奇行で知られ、笑いの対象となることによって世俗王を頂点とする秩序の外から発言することを許された。類似の例はさまざまな民族や時代に観察できる。」と書いているが新左衛門はどの様な奇行で知られたのか?例えば有名なのは、
{問題} 曽呂利新左衛門の功績をたたえ秀吉は何でもほしいものをやろうと言ったが新左衛門は辞退した。しかし 秀吉はどうしても何か受け取れと言うので、新左衛門は「今日は米1粒、明日は2粒、あさっては4粒、次の日は8粒・・・・・と前の日の2倍の米粒を次の日にというように81日間だけください。」といった。秀吉はたったそれだけでよいのか、さっそく家来に毎日運ばせようといった。いったい、新左衛門は81日間でどれだけの米を手にいれたか。
答えは下へ。
{解答}
1日目1粒、2日目2粒、3日目22粒、4日目23粒、5日目24粒・・・・・・81日目280粒
だから合計の米粒数は
1+2+22+23+24+・・・・・+280
=281-1
=2417851639229258349412351
この単位は粒である。これでは大きすぎてどのくらいの量かわからない。見当のつく単位にかえてみよう。1合の米を数えたら約7500粒あった。1合は約150グラムだから1粒の重さは約0.02グラム。トンに直すと1粒は0.00000002トンこれをかけて米の総重量は約4835703278458516トン(約4800兆トン)20トン積みトラックで241785163922925台分(約240兆台)これでもまだどのくらいか想像できない。1年間の世界中での収穫量を12億トンとみておよそ400万年もかかる量なのである。秀吉といえどもこの褒美の約束は守れなっかたであろう
TITLE:秀吉のご褒美
DATE:2007/05/21 17:52
URL:http://www2s.biglobe.ne.jp/~matuteru/suumon/mondai02.htm
と言う物だがこれは一見馬鹿みたいだがその実気がきいていると言うエピソードであり、笑いの対象となるとは言えない。
曽呂利 新左衛門(そろり しんざえもん)とは、豊臣秀吉に御伽衆として仕えたといわれる人物。落語家の始祖とも言われ、数々の逸話を残した。元々、堺で刀の鞘を作っていて、その鞘には刀がそろりと合うのでこの名がついたという。
架空の人物と言う説や、実在したが逸話は後世の創作という説がある。
TITLE:曽呂利新左衛門 - Wikipedia
DATE:2007/05/21 17:51
URL:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9B%BD%E5%91%82%E5%88%A9%E6%96%B0%E5%B7%A6%E8%A1%9B%E9%96%80
架空の人物と言う説や、実在したが逸話は後世の創作という説がある点については全く考察されていない。
「曽呂利新左衛門 奇行」で検索しても Weblog / 2007-05-25 16:39:33


「曽呂利新左衛門 奇行」で検索しても
曽呂利新左衛門
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動: ナビゲーション, 検索
曽呂利 新左衛門(そろり しんざえもん)とは、豊臣秀吉に御伽衆として仕えたといわれる人物。落語家の始祖とも言われ、数々の逸話を残した。元々、堺で刀の鞘を作っていて、その鞘には刀がそろりと合うのでこの名がついたという。

架空の人物と言う説や、実在したが逸話は後世の創作という説がある。


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2世 曽呂利 新左衛門(2せ そろり しんざえもん、1842年10月15日 - 1923年7月2日)は、大阪生まれの上方噺家。本名: 猪里重次郎。享年81。

大阪新町の友禅染屋に生まれる。幼少時から素人落語に加わり、猫丸、夢丸、かしくなどを名乗る。しかし、このことにより父から勘当され、やむを得ず幇間となって、京都で千九八、大阪堀江で観八を名乗る。

1865年、初代笑福亭松鶴門に入り、京都笑福亭で高座を務め、2代目松竹となる。後、大阪に戻り笑福亭梅香を名乗るが、師匠・松鶴が亡くなったため、新町九軒末廣亭にて松竹亭梅花と改める。1869年10月、座長となり、再び旧名の梅香を名乗る。1973年3月、初代桂文枝門下に移り、初代桂文之助を名乗る。同門の初代桂文三(2代目桂文枝)、2代目桂文都(月亭文都)、初代桂文團治と共に、「四天王」として至芸を称えられた。

1886年、絵画の師である久保田米僊の勧めにより、2代目(「偽」との洒落で「2世」と自称した)曽呂利新左衛門に改名。後に三友派の会長を勤め、1910年、68歳で引退。風流三昧の余生を過ごした。

大ネタよりも、軽い小噺や、座敷芸などで本領を発揮した、どちらかというと才人肌の人であった。上方で膝隠しと見台を使わずに演じた最初の噺家とされる。また、多くの新作・改作をも物にし、達者な筆遣いで活字化している。

1914年6月には「香典保存会」と称して生き葬式をしたり、死後の本葬では寺中を桜の造花で飾りつけたりと、風流な奇行でも知られた。
TITLE:曽呂利新左衛門 - Wikipedia
DATE:2007/05/21 17:51
URL:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9B%BD%E5%91%82%E5%88%A9%E6%96%B0%E5%B7%A6%E8%A1%9B%E9%96%80
位しか発見出来ませんでした。2世 曽呂利 新左衛門絡みだけです。

投稿: 誤智英 | 2007年5月27日 (日) 14時37分

 濟みませんが要點を簡潔にお書き下さいますやうお願ひ致します。

投稿: 木村貴 | 2007年5月29日 (火) 04時04分

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