魁!國語塾(2)
ワハハハ。國語塾塾長、天堂平九郎である。前囘の講義から何と約一年ぶりの登壇ぢや。過日、塾生筆頭兼事務局長の木村が氣まづさうに現れて、「先生、申し譯ありません。どうか講義再開をお願ひ致します」と、いきなり土下座しをつた。どこで何をやらかしてゐたかは大方想像がつくわい。まあ良からう、續きだ。
[ウ] う・ふ
原則:語頭に「ウ」の音が來たら、「う」と書く。語中語尾は「ふ」と書く。
- うぐひす(鶯) うば(姥、乳母) うかぶ(浮)
- あやふい(危) ゆふべ(夕) むかふ(向) わらふ(笑) とふ(問) あふぐ(仰ぐ、煽ぐ) たふれる(倒れる) けふ(今日)
例外:次の語は語中語尾でも「う」と書く。大半は、他の音が「ウ」音に變化した音便の場合である。七群に分かつ。
- 高う 赤う めでたう ; 悲しう 苦しう やさしう; 乞うて 問うて 習うて 漂うて 狂うて……等
- かうし(格子) かうして かうばしい(香) とうに ようこそ
- いもうと(妹) おとうと(弟) かうぢ(麹) かりうど(狩人) くろうと(玄人) しうと(舅) しろうと(素人) なかうど(仲人) のうのう
- かうがい(笄) かうべ(首) かうべ(神戸) かうがうしい(神) かうぞ(楮) こうぢ(小路) たうげ(峠) てうづ(手水) ……さう
- かうもり(蝙蝠) さうざうしい てうな(手斧) はうき(箒) まうす(申) まうでる(詣) もう
- かうむる(蒙) さうして とうさん(父) とうとう どうぞ はうむる(葬) まうける(設) まうける(儲) めうが(茗荷) やうか(八日) やうやう(漸) ゆうべ(昨夜) ゆわう(硫黄)
- 飢う 植う 据う ; 書かう 見せよう ……でせう
第一群は、いづれも形容詞や動詞の活用に伴ふ音便で生じた「う」だ。高う
、赤う
、めでたう
、は元々は高く、赤く、めでたく、だつた。悲しう
、苦しう
、やさしう
、は悲しく、苦しく、やさしく。乞うて
、問うて
、習うて
、漂うて
、狂うて
、は乞ひて、問ひて、習ひて、漂ひて、狂ひて。以上は全て連用形である。形容詞の場合は「く」が「う」に、動詞の場合は「ひ」が「う」に規則正しう變化してゐるのが判るだらう。間違ひやすいのは「向かふ」で、終止形の時は「家に向かふ」だが、連用形になると「家に向かうて」と「う」にしなければならない。「向かふて」は誤りだ。尤も、動詞の場合、現在の標準の口語では「習うて」は「習つて」、「向かうて」は「向かつて」等、詰つた音、すなはち促音便が普通になつてゐる。小説家の車谷長吉さんは、關西出身だからか、「言うた」「狂うた」などのウ音便を愛用してゐる。
第二群は、「く」「ぐ」が「う」に變はつたもの。かうし
は漢字音「格(カク)」の訛り、かうして
はかくして
の訛りだ。香ばしい
は宛字で、本來は「嗅ぐはしい」だつた。とうに
は「とくに(とつくに)」の訛り。ようこそ
は元々は「よくこそ」で、形容詞「よい」の連用形「よく」の「く」が「う」に變はつただけだ。
第三群は、「ひ」「び」が「う」に變はつたものだ。 かりうど
、なかうど
が元來、かりびと、なかびと、だつたのは漢字を見ればすぐ見當がつくだらう。いもうと
は女を示す「いも」に、おとうと
は年下の人を示す「おと」に、それぞれ「ひと」が付いて出來た。かうぢ
は「かび立ち」の意味だと言ふ。酒や醤油や味噌を作るのに、黴を繁殖させた麹を使ふのは御存知だな。
第四群は、「み」「ま」「む」に「う」を當てたもの。かうがい
は「かみ(髮)かき」で、かうべ(首)
は「かみ(上)べ(邊)」だし、かうべ(神戸)
は「かみ(神)べ(部)」から出來た。人名なら神戸
と書いて「かんべ」と讀む場合もあるな。かうがうしい
は「かみ(神)かみしい」だ。こうぞ
は「かみ(紙)そ(麻)」との説が有力。纖維を採る植物を示す「そ」と云ふ古語は衣類に關係が深い。「そで(袖)」もその一つらしい。てうづ(手水)
は「てみづ」、こうぢ(小路)
は「こみち」は漢字を見れば一目瞭然。たうげ(峠)
は「たけ(峰)」の音が延びたとも、むかし山を越えるとき峠のあたりで神樣に「たむけ(手向)」したからとも言はれる。百人一首に入つてゐる菅原道眞の歌に、このたびは幣もとりあへず手向山紅葉の錦神のまにまに
、とある。手向山
とは「手向の神」を祭つてある山の意味で、京都と滋賀の境にある逢坂山を指す場合が多い。「樂しさう」「重さう」と云ふ時の、……さう
、これは「さま(樣)」の「ま」が訛つたらしい。
第五群は、もともと「は」文字だつたのが語中語尾で「ワ」音に變り、さらにそれが「う」に變つたのが主だ。それ以外に、「わ」「を」「ゐ」がそれぞれ「う」に變つたものもある。かうもり(蝙蝠)
は「かはもり(川守)」。はうき(箒)
は「ははき」で、「掃く」に關係ある語。木村の郷里の熊本では、「掃く」を「ハワク」と言ふさうだ。「もう濟んだ」のもう
は、「もはや」から來たものらしい。さうざうしい
は「さわさわしい」。 まうす(申)
は「まをす」の變化で、元來は貴人に對して告げるときの謙讓語だ。ちなみに、「をす」とは「食す」で、飮む、食ふ、身に着けるなどの貴人の行爲を云ひ、支配・統治する行爲をも指す。てうな(手斧)
は「てをの(手斧)」。まうでる
は「まゐ(參)いでる」が訛つたものと言はれる。
第六群は、音便とは少し異なり、音を延ばして言ひやすくする爲の變化だ。さうして
は「さ・して」の「さ」を延ばしたもの。とうとう
は「とどのつまり」の「とど」を延ばしたもの。やうやう
は「やうやく」が轉じたとも、「やや」が延びたとも言はれる。 やうか(八日)
は「八」、つまり「や」を延ばしたもので、「現代かなづかい」で「ようか」と書くより、ずつと判りやすい。昨夜の意味のゆうべ
は、福田恆存先生の説によると、「夜べ」の「よ」が「ゆ」に轉じて、それが延びたもの。この説によれば、夕方の「ゆふべ(夕べ)」と假名遣が違つて來るから注意するやうに。尤も、「昨夜」は「夕べ」と同語源と云ふ説もあり、これだと「昨夜」も「ゆふべ」となる。ここでは一應、福田説に從つておいた。
第七群は、音便でなく、もとから「う」と書く語だ。終止形の語尾が「う」で終はる動詞は、飢う
、植う
、据う
の三語のみだ。尤も、これらは文語體だから現在は餘り使はない。口語では「飢ゑる」「植ゑる」「据ゑる」。いづれも「ゑ」が附くのは、これらがワ行活用の動詞だからだ。五十音圖を思ひ出せ。わゐうゑを。同じワ行の範圍内で、文語から口語へと變化した事が判るだらう。美しいと思はぬか、君。講談社ブルーバックスで出てゐる渡邊正雄先生の科學者とキリスト教によると、ドイツのケプラーは、天體が數學的な整然たる秩序を成してゐる事を發見した時、恩師にかう書き送つたと云ふ。今こそ、天文學においても、神に榮光を歸することができたのです
、と。日本人の神樣は全知全能の創造主ではないが、假名遣を勉強してゐると、西洋の昔の科學者の感動はかう云ふ事だつたのかなと感じ入る時がある。
書かう
、見せよう
の末尾のう
、よう
は推量・意志の助動詞。 「何々でせう」のでせう
も、助動詞「です」の連用形に、同じく助動詞「う」が附いたものだ。蛇足ながら、助動詞「う」は、文語助動詞「む」が轉じたものだ。西行法師の歌、願はくは花のもとにて春死なむその如月の望月のころ
、の「む」だ。さらに蛇足だが、死なむ
の「む」を「う」に代へてみよう。「死なう」。正假名遣なら、このまま口語として通用する。ところが、「現代かなづかい」だと、動詞本體の形まで變へて「死のう」とせねばならぬ。何たる不合理。ケプラーには見せたくないわい。
本日は此迄。次囘は一年後なんて事にならぬやうにしたい。
(公開:平成13年11月18日)
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