« ブルクハルトと鷗外の言葉 | トップページ | 魁!國語塾(2) »

2004年4月29日 (木)

魁!國語塾(1)

わしが國語塾塾長、天堂平九郎である。塾生筆頭兼事務局長の木村が、まあ筆頭と云うても今の處塾生は奴一人しかをらんのだけれども、いつもお世話になつてをります。奴の勸めで、今囘よりこの場を借りて正字正假名の入門講座をやらせて貰ふ事になりました。淺學の身で何かと行き屆かぬ事も多からうと存じますが、御客樣第一主義でやさしく指導致す所存でありますので、どうぞ宜し……おい其處! 欠伸をしながらわしの講義を聽くとは好い度胸だな!

さて、能書は後囘しにして、早速、まづは正假名遣(歴史的假名遣)の正攻法の且つ効率的な覺え方を傳授しよう。講義は次の手順で進める。

  1. 基本七音
  2. 長音さまざま
  3. 漢字の讀み

では基本七音から入る。次に掲げるのは御存知、五十音圖である。正假名遣用なので、「わ行」が「わゐうゑを」となつてゐるのに注意してほしい。他は「現代かなづかい」の五十音圖と同じだ。この圖を頭にきちんと入れておけば、正假名遣ひの理屈がぐつと分かり易くなる。

強調を施した假名で、同じ列に竝ぶグループ、すなはち「は、わ」「い、ひ、い、ゐ」「う、ふ、う」「え、へ、え、ゑ」「お、ほ、を」は、常に同じ音で讀むか、讀む場合がある。逆に言へば、同じ音を複数の假名を使ひ分けて表すわけだ。驚かなくて好い。「現代かなづかい」でも、「は」と「わ」、「お」と「を」などの使ひ分けはやつてゐるだらう。正假名遣ひはそれをもう少し嚴密に合理的にやるだけだ。「あ行」と「や行」の「い」「え」、「あ行」と「わ行」の「う」は同じだから、實際には使ひ分けは以下のやうに整理出來る。音は片假名で記す。

  1. [ワ] わ・は
  2. [イ] い・ひ・ゐ
  3. [ウ] う・ふ
  4. [エ] え・へ・ゑ
  5. [オ] お・ほ・を

どうでも好いが、單純に讀み上げると譯も無く笑つてゐるみたいで不氣味だな。これ以外に[ジ](「じ」と「ぢ」)、[ズ](「ず」と「づ」)の使ひ分けがある。都合、七つの音について、二~三種の字の使ひ分けを覺えれば好いわけだ。これぞ基本中の基本、正假名遣の智慧の七柱。これが出來れば九割方は出來たも同然である。それではこれより、具體的な使ひ分けの規則を見てゆかう。少し長くなるから、便所に行きたい者は行つて好いぞ。

さて、講義再開である。

[ワ] わ・は

原則:語頭に「ワ」の音が來たら、「わ」と書く。語中語尾は「は」と書く。

わかい(若) わかれ(別) わく(沸) わける(分) わたくし(私) ; あは(粟) いは(岩) おもはない(思はない) しあはせ(幸) こはい(恐)……等多數。

例外:次の語は語中語尾でも「わ」と書く。

あわ(泡) いわし(鰯) おひわけ(追分) くつわ(轡) くるわ(廓) くわゐ(慈姑) ことわざ(諺) ことわり(理) こわいろ(聲色) しわ(皺) しわざ(仕業) はにわ(埴輪) ひわ(鶸); あわてる(慌) うわる(植) かわく(乾) ことわる(斷) さわぐ(騒) ざわつく ざわめく すわる(坐) たわむ(撓) ; あわただしい(慌) たわいない よわい(弱)

原則通りになる例の中で、上には思はない一つだけを擧げたけれども、言ふ、買ふ、食ふ、漂ふ、舞ふ……等々、所謂「ハ行四段活用」の動詞は總て同樣に、言はない、買はない、食はない、漂はない、舞はない……となる。これらを動詞の未然形と呼ぶのは知つてゐるな。ついでに他の活用形も書いておかう。

  • 未然形 思は(ない、う)
  • 連用形 思ひ(ます)
  • 終止形 思ふ
  • 連體形 思ふ(時)
  • 假定形 思へ(ば)
  • 命令形 思へ

未然形以外の活用形は、後に「ひ」「ふ」「へ」を説明する時にまた觸れるけれども、ここで一度に覺えて仕舞ふが宜しい。比べて見ると判るが、正假名遣の活用表の方が「現代かなづかい」の活用表よりもすつきりして美しい。現代かなづかいだと「思は(う)」が「思お(う)」となり、未然形に「思わ(ない)」「思お(う)」の二種類が混在して仕舞ふからだ。

例外の語は名詞、動詞、形容詞の順に竝べて「;」で區切つておいた。日常よく使ふ言葉はほぼ網羅してゐるから、これらの例外を暗記しておいて、ここに無い語で語中語尾に「ワ」が出てきたら「は」と書けばまづ間違ひないと云ふ譯だ。それに、總てを丸暗記せねばならない譯でもない。例へばおひわけは、「追ふ・分ける」と二語が連結して出來た言葉だとすぐ見當が附く。「分ける」の「ワ」は語頭の「ワ」だから、「わける」と書き、それが「追ふ」と連結した後も生きてゐるのだ。

こわいろは元々「こゑ(聲)・いろ(色)」で、「こゑ」が「こわ」に變化した形だ。五十音圖を思ひ出してほしい。出鱈目に變化するのでなく、同じ「わ行」の範圍内で、「ゑ(we)」から「わ(wa)」へと移つてゐる。丁度、「あめ(雨)・おと(音)」で「め(me)」が「ま(ma)」に變つて、「あまおと(雨音)」になるやうにだ。ちと横道に逸れたが、どうだい、「わゐうゑを」を殘した正假名遣なら、かう云ふ音變化の規則性が一目瞭然だらう。

動詞の中で、要注意はうわるすわる。それぞれ「うゑる(植ゑる)」「すゑる(据ゑる)」の自動詞の形である。おや、ここでも「ゑ→わ」の變化が出てきた。「坐る」と「据ゑる」が同根の言葉だと知つて、膝を叩いた人もゐるのではないかな。昔庶民の食ひ物だつた粟は「あは」で、今でも慌て者が食ふ泡は「あわ」だ。

[イ] い・ひ・ゐ

原則:語頭は「い」と書く。語中語尾は「ひ」と書く。

いいえ(否) いきる(生) いくさ(戰) いし(石) ; あひだ(間) いきがひ(生甲斐) さいはひ(幸) ちひさい(小) かひ(貝) つひに(終に) たぐひ(類) きらひ(嫌) まひ(舞) よひ(宵)……等多數。

例外:次の【ゐ】の語は「ゐ」と書き、【い】の語は語中語尾でも「い」と書く。

【ゐ】ゐ(井) ゐ(猪・亥) ゐ(藺) ゐたけだか(居丈高) ゐど(井戸) ゐなか(田舍) ゐのしし(猪) ゐもり(井守) あぢさゐ(紫陽花) あゐ(藍) いぬゐ(戌亥) かもゐ(鴨居) くらゐ(位) くれなゐ(紅) くわゐ(慈姑) しきゐ(敷居) しばゐ(芝居) せゐ(所爲) つゐ(對) とりゐ(鳥居) もとゐ(基) ; ゐる(居) ゐざる(膝行) ひきゐる(率) まゐる(參) もちゐる(用)

【い】かい(櫂) さいづち(才槌) さいはひ(幸) たいまつ(松明) ついたち(朔日) ついたて(衝立) ついで(序) やいば(刃); おいる(老) くいる(悔) はいる(入) むくいる(報) ; あるいは(或) つい(はからずの意) ;かいて(書いて) あかい(赤い)

矢張り特定の言葉から派生した語が多く、聯想で覺えやすい。まづ「ゐ」の方だが、井戸井守が「井」から派生した事はすぐ解るし、西北の方角を意味する戌亥が「亥」から來たのも明らかだ。他の多くは「居」から派生した言葉だ。は本來は「座居(くらゐ)」で、神樣のゐる場所を指した。田舎は元々「田居中(たゐなか)」だつたらしい。

紫陽花はどちらも「藍」から派生したのを御存知だつたかな。紫陽花は、群集を意味する「あぢ」に「さあゐ」を組合せたもので、「さあゐ」をさらに分解すると、「さ」は「まつさを(眞青)」の「さ」と同じで「眞」の意味、「あゐ」は「藍」だ。一方、くれなゐは「呉の藍」の縮まつた形だ。呉と云つても廣島の呉ではないぞ。「呉竹(くれたけ)」の呉と同じで、昔の支那にあつた國だ。おつと誰かな、支那が「差別用語」だなどと非學問的な文句を言ふのは。尤も、どこぞの大學と違うて、ここでは教師が支那と云ふ語を發しただけで講義禁止になる氣遣ひは無いけれどもな。ワハハハ。

まゐる(參)は、「まゐ(參)いる(入)」の縮まつた形。「參」は神樣や目上の人の處へ出掛ける意味だ。現代では數少ない正假名派の作家、若合春侑さんの小説に腦病院へまゐります。と云ふのがある。率ゐるは古語の「率る(ゐる)」から來た言葉で、本來は「引き率る」。「率る」は、支配的な立場にある者が他の人の先に立つて引き連れ歩く事を云ふ。用ゐるは「持つ・率る」だ。

つゐは漢字の「對」の音を示してゐる。せゐも漢語の「所爲(そゐ)」から來たらしい。このやうに漢字の音がそのまま、或は多少變化した形であたかも和語のやうになつた言葉には、他に「馬」「梅」「竹」などがある。和語のやうに、のやうも元來は「樣」だ。これらの言葉は、いづれ漢字の讀みのところで詳しく觸れるつもりだ。

次に「い」だが、實はこのうち大部分は、別の音から「イ」に變化した音便だ。たいまつは「たきまつ(焚松)」の音便とも「たひ(手火)松」が轉じたとも云はれ、ついたちは「つきたち(月立)」の音便であり、やいばは「やきば(燒き刃)」の音便である。「つい寢過ごした」のついも、やはり「突き」の音便だ。「つひにアルプスを征服した」のつひに(終に、遂に)は全然別の言葉だから、間違へないやうに。終につひは「つひやす(費やす)」と同根との説があるらしい。

上には書いて赤いしか擧げなかつたが、泣いて、仰いで、咲いて、であるとか、高い、安い、温かい、であるとかも總て音便だ。元來は、書きて、泣きて、仰ぎて……であり、赤き、高き、……である。最近目出度く出所した花輪和一の漫畫に赤ヒ夜と云ふのがあるが、これは間違ひで、正しくは『赤イ夜』でなければならぬ。丸尾末廣の漫畫少女椿の幕切れで福助が皆樣のあたたかひご支援云々と口上を述べるが、これも間違ひ。「あたたかい」が正しい。まあ兩畫伯の「正假名」は、レトロの雰圍氣を出す爲のパロディなのだらう。

ついでに言ふと、「ください」は「くださりませ」、「ございます」は「ござります」の音便だから、ともに「い」を使はなければならない。「御座居ます」と云ふ宛字に引き摺られて、「ござゐます」とやらかすのは不可だ。もう一つ言ふと、「いらつしやる」は「入らせられる」が語源だから、「ゐらつしやる」は誤りだ。

老いる悔いる報いる、は文語體の終止形が、老ゆ、悔ゆ、報ゆ、だから、「や行」活用の動詞だと判る。從つて、口語體に變化する場合も同じ「や行」の「い」が出て來る。「わ行」でも「は行」でもないから、「老ゐる」とか「老ひる」とかには決してならない。ここでも五十音圖大明神樣だな。

どうだい、正假名遣は丸暗記したつて大して苦にならないが、少し深く勉強すると、語源や文法の知識も身に附いて一石二鳥にも三鳥にもなつて、面白いだらう。おつと、わしの方まで面白がつて教へてゐたら、時間だ。續きは次囘。

(公開:平成12年10月23日 修正:平成13年11月18日)

|

« ブルクハルトと鷗外の言葉 | トップページ | 魁!國語塾(2) »

コメント

 ここに書かれている物や、それ以外に多数あるであろう規則を覚えなければ書けないとは、旧仮名とはまたバカバカしいくらい複雑ですなあ。私は新仮名文と旧仮名文の読みは自在、新仮名漢字混じり文、旧仮名漢字混じり文の読みと、新仮名漢字混じり文の書きはほぼ自在、旧仮名漢字混じり文の書きはどうやら、という日本語力ですが、天堂平九郎センセーの講座を読むと旧仮名の学習意欲はなくなりますね。それと比べて新仮名は、いくらか欠点はあるでしょうが、旧仮名と比較すれば覚えやすいし、書きやすい、それだけで旧仮名の劣位は明らかでしょう。新仮名万歳!

 なお、どこかのバカが「口語訳聖書で洗礼を受けたキリスト教徒をキリスト教徒とは認めない」などとあほなことを嘯いていましたが、それなら、文語訳聖書だって同じ事。聖書を古代ヘブライ語というか、旧約聖書・新約聖書などが最初に書かれた言語で洗礼を受けなければ、本当のキリスト教徒と呼べないことになるでしょう。そういくことも考えないアホウには困りますね。

投稿: 福田恒存をやっつける会会長 | 2006年6月 6日 (火) 12時10分

>多数あるであろう規則を覚えなければ書けないとは、

ここでは「習いたい人」を対象に綿密に書いてるから「多数」に見えるだけじゃないのか。
覚えるのがヤなら、新仮名で入力すると旧仮名に変換されるように設定すればいいだけのことだよ。ワープロではなく、手書きでのことを問題にしてるなら、適当に間違いながらやればいいだけのこと。

というかさ、(何千人の会員がいる会か知らんが)会長サマ自身が「旧仮名漢字混じり文の書きはどうやら」と書いてるよな。
ここの文章を「読むと旧仮名の学習意欲はなくなりますね。」とか書いてる同じ人がね。
つまり「多数あるであろう規則」なんて覚えなくても「どうやら」程度なら書けるって自分自身で証明してるんじゃないか。

>それと比べて新仮名は、いくらか欠点はあるでしょうが、旧仮名と比較すれば覚えやすいし、書きやすい、それだけで旧仮名の劣位は明らかでしょう。新仮名万歳!

旧かな派の人はそれと反対に、新仮名の「いくらか」の「欠点」が大きすぎるから、「比較すれば覚えやすいし、書きやすい」だけでは差し引き大きなマイナスになるというような考えなんだろ。
会長サマの「新仮名万歳!」はそれを論破してない(その努力すらしてない)から「議論」とは呼べないよね。

投稿: うさ汁 | 2006年6月 6日 (火) 15時57分

>どこかのバカが「口語訳聖書で洗礼を受けたキリスト教徒をキリスト教徒とは認めない」などとあほなことを嘯いていましたが、

それは確かにアホだね、そんなヤツが実在するとしたら。
ただ、「口語訳聖書を支持するような連中は(その信仰を云々する以前に)日本語のセンスがどうかしてる」ということなら、いちおう聞くべき意見と言えるだろうな。
「どこかのバカ」って実在するのかねえ。「会長」サマの脳内に住んでる人なんじゃないの。

投稿: うさ汁 | 2006年6月 6日 (火) 16時06分

「現代仮名遣」には、歴史的假名遣の規則に加へて、それを無秩序に改めた規則が附け加はります。「会長」は、歴史的假名遣を「複雑」だと言つてゐますが、歴史的假名遣の原理はよりシンプルであり、そのシンプルな原理に様々な手を加へた「現代仮名遣」はより複雜なものとなつてゐます。

「は行四段活用」と「あわ行五段活用」とでは、後者の方が複雜であるのは火を見るよりも明かな事ですね。


「会長」氏、例によつて勢ひで罵つてゐますが、皆口から出任せです。データを見れば眞實が判ります。「会長」が、ひたすら罵倒の文句を連ね、データを出さないのは、出すと自分の嘘がばれるからです。

投稿: 野嵜 | 2006年6月 6日 (火) 18時20分

そもそも「複雑」と云ふのが「假名遣を變へなければならない」必然的な理由となり得ません。「歴史的假名遣を止めなければならない根據」は何一つありませんでした。私は根據のない「改革」には反對です。

それに、新假名なんてものが無ければ、日本人は歴史的假名遣だけ學習すれば良かつたのに、新假名なんてものをわざわざ作つてしまつた爲に、新假名と正假名の兩方を學習しなければならなくなりました。「会長」が何と言はうと、事實として教育が複雜化した事は否定出來ません。

投稿: 野嵜 | 2006年6月 7日 (水) 00時57分

 私も人が良い方なので「さよなら」と云つた筈の会長につい反應して仕舞ひますが、英語しか知らない人に日本語を教へようとするのと同樣、新假名しか知らない人に正假名を教へようとすれば細かい事を諄々と書かざるを得ないのは自明の理であります。若し会長の「論理」に從へば、英米人から見れば「日本語とはまたバカバカしいくらい複雑ですなあ」と云ふ事になり、「英語の方が覚えやすいし、書きやすい、それだけで日本語の劣位は明らかでしょう。英語万歳!」と云ふ事にもなります。バカバカしい。

投稿: 木村貴 | 2006年6月 7日 (水) 01時38分

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/30565/510836

この記事へのトラックバック一覧です: 魁!國語塾(1):

« ブルクハルトと鷗外の言葉 | トップページ | 魁!國語塾(2) »