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2004年4月29日 (木)

10月1日では遲すぎる

 フレッド・ホイルの長篇SF『10月1日では遲すぎる』(伊東典夫譯、ハヤカワ文庫)を一氣に讀了。SFと云つても硬軟樣々であるが、本篇はハードもハード、天文學者でもある作者が現代物理學の知識を動員して描いた本格的な「時間物」である。物理學(のみならず科學全般)にはからきし弱い私だが、時間物SFは好きである。以前讀んだバリントン・J・ベイリー『時間衝突』(大森望譯、創元SF文庫)は、時間が未來から過去に逆流する世界をテーマとしてゐたが、『10月1日』は、地球上に樣々な時代が同時に出現すると云ふ内容である。

 原書の初版は1966年で、そこで紹介される時間理論は、現在ではさほど目新しいものではなくなつてゐるかもしれない。それでも、「時間が過去から未來へ進む」と云ふ常識的考へが物理學上は誤りとされてゐるらしい事や、「物理實驗の結果を確かめるには、詰るところ、自分の眼で見ると云ふ物理法則を越えた決斷をしなければならない」と云ふ、所謂「シュレディンガーの猫」の話は、何度考へてもつくづく不思議であり、神祕的である。さうした不思議にあらためて思ひを致すのは、ハードSFの謂はば啓蒙書としての樂しみと云へる。
 物語としては、脇役の描き方などにやや不滿は殘る。例へば、主人公の作曲家とともに古代ギリシアへの探檢隊に加はる女學者、アンナ・フェルドマンは「たけだけしい女丈夫」であると作者は書いてゐる(143頁)が、その「女丈夫」ぶりを發揮する具體的場面は殆ど出て來ない。それでも、現代の世界に戻れない事が判つた時、アンナが「ほとんど聞こえないほどかすかに泣きはじめた」と云ふ件り(178頁)は、短いが非常に印象的である。
 終盤、主人公とその友人の科學者は、數千年先の未來で再開する。友人は現代の世界に戻る事を選擇する。「長い間に進歩した科學の成果を學べる事は、最初は樂しいかもしれない。だが、それを學び終へ、創造的な仕事に取掛かれるまでに大變な努力を要するではないか」と考へた爲である。勞せずして知識を得る事は、人間にとつて決して仕合せではないのである。一方、主人公は未來の世界に留まる。しかし、その後の彼が「激しい苦痛」を覺える事があつた。味氣ない飜譯機を通じない限り、母國語(英語)を話し掛けられる相手が誰もゐないのである。「せめて書く事を」との思ひから、彼はこの物語を書起こす。ルーマニア生れの思想家、シオランが云つた通り、「人間は國語を生きる」のである。
 作者ホイルは音樂に造詣の深い人らしく、主人公の口を借りて、あちこちでなかなか見識ある記述をしてゐる。一つだけ引用しておかう。「抽象音樂とは、高度の技術を持つた人びとが、彼ら自身に缺けてゐる音樂の本質的な要素、つまり感動の火を、音樂から除去しようといふ試みなのだ。(中略)それならなぜ數學者であつてはいけないのか? 純粹の抽象を志すものには、音樂は見當違ひの職業なのだ」(145頁)   (平成13年4月22日「地獄の箴言 掲示板」投稿。同年9月16日再録)

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