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オバマ米大統領ノーベル平和賞受賞演説はすばらしかった。
巧みな演説は人をいとも簡單に醉はせる。だからこそ政治家は演説に異常なほどに力を注ぐ。ブッシュの演説を唾棄した人々が、オバマに拍手喝采する。話の内容もやつてゐることも同じなのに。
ジョージ・オーウェルの小説に出てくる有名な言葉こそ今囘の受賞に最もふさはしい。 戰爭をやらかしてゐる最中の大統領が平和賞を貰ふのだから。
戰爭は平和である
私も以前は、アメリカは己の信じた正義のために戰つてゐるのだから、それでイラクやアフガニスタンの市民が死んでもやむを得ないと思つてゐた。しかしそれはやはり誤りだ。どんな正義を信じてゐようと、無關係な者を殺してよい理由にはならないからだ。
もしもハムレットがクローディアスに復讐しようと、そこに居合はせた罪もない男女や子供もろとも手榴彈で吹き飛ばしたとしたら、我々はハムレットの正義感を稱へるだらうか。答は言ふまでもない。
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政治利用、宮内庁に深まる危機感 天皇陛下と中国副主席会見問題
會見の一カ月前までに文書で正式に申請しなかつたのが問題といふが、本質的に考へれば、申請がたとへ二カ月前、半年前、一年前だつたとしても、それは政治利用だ。
そもそも現在の天皇の役割は、政治に利用されること以外の何物でもない。
民主黨はやり方が拙劣だつたにすぎない。
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田母神俊雄前航空幕僚長は腹の据わつた立派な人なのだらうと思ふ。戰後、長きにわたり左翼的な史觀の押しつけに辟易してゐた人々が快哉を叫ぶのも無理はない。とりわけ例へば渡部昇一氏の著作を愛讀するやうな人なら、「日本は矢張り惡くない」とて諸手を舉げて田母神氏に百パーセントの賛意を示した事だらう。
しかし私が田母神氏に聞いてみたいのは、次のやうな事である。あなたが國を裏切るか友を裏切るかと云ふ瀬戸際に立たされた時、どちらを選びますか。イギリスの作家、E.M.フォースターは「迷ふことなく國を裏切る」と云つたと云ふ。私もフォースターに百パーセント同意する。人間にとつて一番大切なのは、國家ではない。
おそらく私のやうな人間は、勲章を貰へるやうな兵士にもスパイにもなれないだらう。しかしそれでよいと思ふ。
田母神さん、そして自衞官の皆さん。國家と友情と、どちらを選びますか。この問ひを避けて通る保守系雜誌の論文や「軍事ブログ」「政治ブログ」なんぞ、讀む價値は無いと思ふ。
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レマルク『西部戰線異状なし』(秦豐吉譯、新潮文庫)の284頁以下で、戰場に赴いたドイツの兵士たちが戰爭や國家について議論を交はす場面がある。大いに讀む價値のある箇所なので拔粹して紹介したい。
「おれたちはここにかうしてゐるだらう、おれたちの國を護ろうつてんで。ところがあつちぢやあ、またフランス人が、自分たちの國を護ろうつてやつてるんだ。一たいどつちが正しいんだ」 「どつちもだらう」 「だがドイツの豪え學者だの坊さんだの新聞だのの言つてるところぢや、おれたちばかりが正しいんだつて云ふぢやねえか。だがフランスの豪え學者だの牧師だの新聞なんかだつて、やつぱり自分たちばつかりが正しいんだつて、頑張つてるだらう。さあそこはどうしてくれる」
「(そもそも戰爭が起こるのは)一つの國が、よその國をうんと侮辱した場合だな」 「なに、一つの國だつて。一たいドイツの山がフランスの山を侮辱するなんてことは、できねえ話ぢやねえか」 「そんな意味ぢやねえ。ある國民がよその國民を侮辱した場合だ……」 「そんならおれたちはここで何も用がねえぢやねえか。おれはちつとも侮辱されたやうな氣がしてねえものな」
「國民といつたつて、全體だよ。つまり國家つてやつだよ……」 「なにが國家だい。憲兵のよ、警察のよ、税金のよ、それが貴樣たちのいふ國家だ」 「國家といふものと故郷と云ふものは、こりや同じもんぢやねえ。確かにそのとほりだ」 「だがそいつは兩方とも一つものにくつついてゐるからなあ。國家のねえ故郷といふものは、世の中にありやしねえ」
長くなるのでこれくらゐにしておかう。『西部戰線異状なし』は文藝作品としての價値はともかく、その反戰思想から右派智識人の間で反感を買つてゐるが、それではレマルクが作中人物を通して提起した問ひにきちんと答へられる者が果たして何人いるだらうか。外國から「侮辱された」と感じてもゐない人間がなぜ、見も知らぬ他國人を殺すために銃を取つて戰場に赴かなければならないのか。自分の故郷を護るためになぜ、國家の命令に從はなければならないのか。
左翼が幅を利かせてゐた頃、右派智識人は論壇で冷飯を喰はされてゐたが、今では形勢はすつかり逆轉した。しかし論壇に屡々登場する右派智識人たちが書くのは相も變はらず左翼の惡口ばかり(最近は右派の内輪揉めも増えてゐるやうだが)で、國家や戰爭や道徳について本質的な疑問に答へてくれる議論は全然見當たらない。いづれ日本が戰爭をやらかすことになれば、日本の「豪え學者だの坊さんだの新聞だの」はまたぞろ「自分たちばつかりが正しい」と連呼するのだらう。嗚呼。
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「何用あつて月へ行く、月は眺めるものである」。故山本夏彦氏の言葉である。アポロ計劃か何か知らないが、莫大な豫算を投じてまで月へ人間を送つて何をしようと云ふのか。月は近くで見れば岩石が轉がるばかりの曠野に過ぎぬ。遠くから美しい姿を眺めておいた方が遙かに心の糧になるではないか。花鳥風月を愛でる事を知つてゐた日本の古人はその點偉かつた――と云つた意味である。夏彦ファンの間ではよく知られた言葉であり、私自身、以前はその着眼に感心したものだ。今でも同意出來る點がないではない。しかし同時に、所詮は底の淺い考へだと思はずにはゐられない。そのゆゑんを以下綴る事とする。
昔、アメリカにウィルバー、オーヴィルと云ふ名の兄弟がゐた。二人は牧師の子で自轉車屋を營んでゐたが、夢があつた。空を飛ぶ夢である。收入の殆どを夢の實現につぎ込み、「妻と飛行機の兩方は養へない」との理由でそろつて生涯獨身を貫いた。グライダーで何度も實驗を繰り返し、やうやく有人飛行に成功したが、その後の飛行で墜落し、オーヴィルは負傷、同乘者は死亡すると云ふ悲劇に見舞はれた。それでも諦めず、會社を興して性能向上に打込み、飛行機が兄弟の發明であると云ふ特許を勝ち取る。兄弟の姓をライトと云つた。
當初、ライト兄弟の企てはそれこそ夢物語だと嗤はれた。「機械が空を飛ぶことは不可能」と決めつける科學者すらあつた。しかし天を舞ひたいと願つた兄弟の不屈の精神はつひに實を結び、航空機の輝かしい發展に道を拓いたのである。現代に生きる我々は皆ライト兄弟の恩恵を被つてゐると云へる。飛行機に乘つた事のない者でも、空路の發展による經濟的利便を間接的に享受してゐるからだ。ライト兄弟が當時は荒唐無稽とされた夢を抱いてゐなければ、旅客機も戰鬪機も生れなかつた。
さて、「何用あつて月へ行く」と書いた山本夏彦氏がもしもライト兄弟と同時代に生きてゐたら、かう云つた事だらう。「何用あつて空を飛ぶ、空は眺めるものである」。たしかに青空は眺めてゐるだけで十分美しい。だが眺めてゐるだけでは飛行機は決して發明されない。空を飛んでやらうなどと醉狂で不遜で青臭い冒險心を抱く人間がゐなければ、飛行機に限らず、文明に進歩は無いのである。
西洋には昔から、そのやうな大それた夢を抱く人間達がゐた。そして彼らは不敬への戒めとなると同時に、英雄として稱へられた。神から火を盜んだプロメテウス。蝋で固めた翼で太陽を目指し墜落したイカロス。冒險心こそ西洋精神であるとさへ云へよう。何用あつて空を飛ぶ? 大きなお世話だ。飛びたいから飛ぶのだ。その冒險心は近現代に受け繼がれ、蒸氣機關の發明による産業革命を齎し、コンピューターの爆發的な發展につながつた。
西洋の自然科學にせよ藝術作品にせよ資本主義にせよ、その根柢に存在するのはこの不敵な冒險心である。權威や前例にとらはれず、己の頭腦と才能のみを信ずる自由な精神である。家柄門地にとらはれず貴族を批判する精神が無ければ、ボーマルシェの「フィガロの結婚」は書かれなかつたし、それに基づくモーツァルトの歌劇も生れなかつたのだ。
日本の保守派智識人は「アメリカ流資本主義」を口を極めて罵るが、アメリカ流資本主義の精神がなければ、例へばライト兄弟の發明は實現せず、從つて日本の航空自衞隊も「日の丸ジェット」も存在し得なかつた事に全く氣づいてゐない。
西洋の冒險心と書いたが、その精神は多かれ少なかれ、洋の東西を問はず人間に共通するものである。少なくもこの私は、そのやうな精神を大切にしたいと願ふ。自由否定の「哲學」を信奉する者は自らそのやうに生きればよい。だがその考へを押しつけられる事だけは御免である。
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喜六郎氏の不思議な主張。
言うまでもなく、私はリバタリアニズムは断固として否定する。/私は木村氏ほど、市場を形成する人間の良心というものを信頼していないからである(信頼したいという気持ちはあるが)。
人間の良心はそれほど信頼出來るものではない、と云ふ意見には私も同意する。しかしそれなら何故、喜六郎氏は次のやうな腦天氣な事を書けるのだらうか。
そこで必要なのが、政府による規制である。
「政府」を運營してゐるのは誰だらうか。天使だらうか、神だらうか。云ふまでもなく人間である。喜六郎氏はどうして、政府を運營する人間の良心だけは信頼出來るのだらうか。隨分底の淺い人間觀である。人間が信頼出來ないのなら、極力權力を持たせず、自由な市場で互ひに監視し合ふ方が害が少ないではないか。
あと木村さんは、/政府と勞働組合が結託して最低賃金と云ふ規制を設定してゐる所爲で、もつと安い賃金でも働きたいと云ふ人々の就業機會を奪ひ、働きたいのに働けず、貧困層の増加につながつてゐると云ふのが定説なのですが。/なんて書いてるけど、こんな定説聞いたことないんですが。/まぁいかにもリバタリアンが言いそうなことではあるが。
こんな定説聞いたことない……。經濟學教科書の定番の一つ、『マンキュー經濟學・マクロ篇』(東洋經濟新報社)の舊版250頁にはかうある。「最低賃金法によつて、需要と供給が一致する水準よりも上方に賃金が引き上げられると、均衡水準に比べて勞働供給量が増加し、勞働需要量が減少する。したがつて、勞働には餘剩が發生する。仕事の數よりも働きたい勞働者の數のはうが多いので、失業が發生する」。ちなみに筆者マンキューはアメリカ政府の要職を務めた事もある穩健な主流派經濟學者であり、エキセントリックな「リバタリアン」などではない。
まあ喜六郎氏の反市場主義は、私の市場主義なんぞより遙かに廣汎に流布した「宗教」であり、その教祖も小林よしのりとか雨宮処凛とか西部邁とか佐高信とか藤原正彦とか関岡英之とか佐藤優とか左右を問はず錚々たる面々が控へてゐるので、説得は無理だと分かつてはゐるが。
(追記)マンキューの同書舊版45頁にある「政策提言と經濟學者の賛同率」によれば、「最低賃金の引上げは、若年勞働者と未熟練勞働者の失業率を引上げる」との指摘に對し、79%の經濟學者が同意してゐる。無知な喜六郎氏が「聞いたこと」あらうがなからうが、要するに「定説」なのである。
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腹が立つと書きたくなる男の獨白。
「人間不在の経済論」より。
>松原信者は全般的に経済に無関心な人が多い。/そんな中で果敢に「正しい経済」について論じているのが、経済記者である木村貴である。
御指名有難う御座います。松原信者經濟擔當の木村です。但し無免許運轉。
>木村の経済観というものは、M.フリードマン流の市場原理主義・リバタリアニズムを主軸としたものである。
細かい話ですが、私はフリードマン信者ではありません。ミーゼス信者です。リバタリアニズムにお詳しい喜六郎さんは當然御存知でせうが、リバタリアニズムには大きく二つの流れがあつて、一つはミルトン・フリードマン、ジョージ・スティグラー、ゲイリー・ベッカーらに代表されるシカゴ學派、もう一つはメンガー、ベーム=バヴェルク、ミーゼス、ハイエク、ロスバードらを中心とするオーストリア學派です。このうち、金融政策を含め一切の政府介入を排する徹底した「市場原理主義」を唱へるのが私の好きなオーストリア學派です。テストに出るかもしれないのでよく覺えておくやうに。
>かつて小泉純一郎・竹中平蔵コンビが積極的に推し進めた構造改革も、市場原理主義・リバタリアニズム的な改革であり、規制緩和による富裕層への優遇・「小さな政府」志向による都市重視と地方軽視政策・郵政事業を始めとする民営化政策などにより、日本景気は一時的に回復の兆しを見せたものの、反面、ワーキング・プアやネットカフェ難民などといった新たな貧困層の出現や、北海道夕張市に代表される地方の衰退、民営化による外資系ハゲタカファンドの跳梁など構造改革(リバタリアニズム改革)の負の面が露わになってきた。
小一時間問詰めたいくらゐの突込みどころがあります。例へば……
●規制緩和がどうして富裕層優遇なのですか。例へばコメの輸入の規制緩和でコメの値段が下がれば、最も恩恵を受けるのはコメばかり食べてゐる貧困層ではありませんか。
●小さな政府がどうして地方輕視なのですか。多くの自治體の首長は皆、小さな中央政府を要望してゐるではありませんか。
●貧困層出現の原因が規制緩和であると云ふ根據を具體的データで示して下さい。あなたの嫌ひな筈の朝日岩波文化人の主張を鵜呑みにしてゐませんか喜六郎さん。いやひよつとしてあなたは匿名の朝日岩波文化人ですか。經濟學的には、例へば、政府と勞働組合が結託して最低賃金と云ふ規制を設定してゐる所爲で、もつと安い賃金でも働きたいと云ふ人々の就業機會を奪ひ、働きたいのに働けず、貧困層の増加につながつてゐると云ふのが定説なのですが。
●地方の衰退の原因が規制緩和であると云ふ根據を(以下同文)
●日本における外資系ハゲタカファンドの「跳梁」がなぜ惡いのですか。日本企業の大半は海外で「跳梁」して利益を稼いでゐるのですが、それは怪しからぬ事なのでせうか。
>そのような状況の中で、「愚かな民衆が嫌うリバタリアニズムこそが正義である!」と反民衆主義を唱える木村の経済観が如何なるものかを検証していきたい。
ははあ、すると喜六郎さんは「愚かな民衆」、つまり愚民の身方な譯ですね。西部邁大先生が聞いたらさぞ歎く事でせう。笑ひ。
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喜六郎先生より嚴しい斷罪が。
木村氏の戦争観は良く分かった。/木村氏がそういう戦争観を持つのは個人的に自由だし、木村氏の戦争観を矯正しようなどという積もりもない。/ただ、木村氏に一言言いたい。/この戦争観って、かつて「岩波文化人」とか「進歩的文化人」と呼ばれた人達のそれとどこが違うんだ?/「軍隊は個人の権利を侵害する悪いモノです」「外国が攻めてきたら個人がゲリラとなって戦えばよい」/まんま同じじゃん。/道理で西部邁氏や西尾幹二氏を目の敵にするわけだ。[中略]で、これで木村氏との言い争いは終わりにしたいと思う。/木村式道徳論の正体も分かった事だし、これ以上続けても不毛だと判断した。
上の文章を讀んでおやおやと思つてゐたところ、こんな「加筆」が數日後に。
「ゲリラ」云々の批判については、自分の勇み足だったなと今は反省しております。魂点に関しては、潔く木村氏に謝罪しようと思います。/申し訳ありませんでした。
いえいえどうも御叮嚀に。
喜六郎先生は私の事を「リバタる者は救われず」などと指彈してゐるので、リバタリアニズム(自由至上主義)やアメリカ思想についてかなり詳しく御存知なのかと思つてゐたのだが、どうもさうではなかつたやうだ。大雜把に云へば、リバタリアンとは國内政策については或る意味右翼的、外交政策については或る意味左翼的な主張をする事で知られてゐる。左右による思想の區別しか知らない日本人にとつて理解し難いのは當然で、私を「ただの左翼」と決めつけた喜六郎先生もその一人だつたに過ぎない。と云ふ事で「勇み足」については快く許して進ぜませう。時間があれば森村進教授の『リバタリアニズム讀本』でもお讀みになつてみては如何。
續きはまた今度。年度末で結構忙しい。
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