2008年5月 9日 (金)

まだゐた朝日岩波文化人

腹が立つと書きたくなる男の獨白。

人間不在の経済論」より。

>松原信者は全般的に経済に無関心な人が多い。/そんな中で果敢に「正しい経済」について論じているのが、経済記者である木村貴である。

御指名有難う御座います。松原信者經濟擔當の木村です。但し無免許運轉。

>木村の経済観というものは、M.フリードマン流の市場原理主義・リバタリアニズムを主軸としたものである。

細かい話ですが、私はフリードマン信者ではありません。ミーゼス信者です。リバタリアニズムにお詳しい喜六郎さんは當然御存知でせうが、リバタリアニズムには大きく二つの流れがあつて、一つはミルトン・フリードマン、ジョージ・スティグラー、ゲイリー・ベッカーらに代表されるシカゴ學派、もう一つはメンガー、ベーム=バヴェルク、ミーゼス、ハイエク、ロスバードらを中心とするオーストリア學派です。このうち、金融政策を含め一切の政府介入を排する徹底した「市場原理主義」を唱へるのが私の好きなオーストリア學派です。テストに出るかもしれないのでよく覺えておくやうに。

>かつて小泉純一郎・竹中平蔵コンビが積極的に推し進めた構造改革も、市場原理主義・リバタリアニズム的な改革であり、規制緩和による富裕層への優遇・「小さな政府」志向による都市重視と地方軽視政策・郵政事業を始めとする民営化政策などにより、日本景気は一時的に回復の兆しを見せたものの、反面、ワーキング・プアやネットカフェ難民などといった新たな貧困層の出現や、北海道夕張市に代表される地方の衰退、民営化による外資系ハゲタカファンドの跳梁など構造改革(リバタリアニズム改革)の負の面が露わになってきた。

小一時間問詰めたいくらゐの突込みどころがあります。例へば……
●規制緩和がどうして富裕層優遇なのですか。例へばコメの輸入の規制緩和でコメの値段が下がれば、最も恩恵を受けるのはコメばかり食べてゐる貧困層ではありませんか。
●小さな政府がどうして地方輕視なのですか。多くの自治體の首長は皆、小さな中央政府を要望してゐるではありませんか。
●貧困層出現の原因が規制緩和であると云ふ根據を具體的データで示して下さい。あなたの嫌ひな筈の朝日岩波文化人の主張を鵜呑みにしてゐませんか喜六郎さん。いやひよつとしてあなたは匿名の朝日岩波文化人ですか。經濟學的には、例へば、政府と勞働組合が結託して最低賃金と云ふ規制を設定してゐる所爲で、もつと安い賃金でも働きたいと云ふ人々の就業機會を奪ひ、働きたいのに働けず、貧困層の増加につながつてゐると云ふのが定説なのですが。
●地方の衰退の原因が規制緩和であると云ふ根據を(以下同文)
●日本における外資系ハゲタカファンドの「跳梁」がなぜ惡いのですか。日本企業の大半は海外で「跳梁」して利益を稼いでゐるのですが、それは怪しからぬ事なのでせうか。

>そのような状況の中で、「愚かな民衆が嫌うリバタリアニズムこそが正義である!」と反民衆主義を唱える木村の経済観が如何なるものかを検証していきたい。

ははあ、すると喜六郎さんは「愚かな民衆」、つまり愚民の身方な譯ですね。西部邁大先生が聞いたらさぞ歎く事でせう。笑ひ。

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2008年3月13日 (木)

リバタリアンの意味を御存知?

喜六郎先生より嚴しい斷罪が。

木村氏の戦争観は良く分かった。/木村氏がそういう戦争観を持つのは個人的に自由だし、木村氏の戦争観を矯正しようなどという積もりもない。/ただ、木村氏に一言言いたい。/この戦争観って、かつて「岩波文化人」とか「進歩的文化人」と呼ばれた人達のそれとどこが違うんだ?/「軍隊は個人の権利を侵害する悪いモノです」「外国が攻めてきたら個人がゲリラとなって戦えばよい」/まんま同じじゃん。/道理で西部邁氏や西尾幹二氏を目の敵にするわけだ。[中略]で、これで木村氏との言い争いは終わりにしたいと思う。/木村式道徳論の正体も分かった事だし、これ以上続けても不毛だと判断した。

上の文章を讀んでおやおやと思つてゐたところ、こんな「加筆」が數日後に。

「ゲリラ」云々の批判については、自分の勇み足だったなと今は反省しております。魂点に関しては、潔く木村氏に謝罪しようと思います。/申し訳ありませんでした。

いえいえどうも御叮嚀に。

喜六郎先生は私の事を「リバタる者は救われず」などと指彈してゐるので、リバタリアニズム(自由至上主義)やアメリカ思想についてかなり詳しく御存知なのかと思つてゐたのだが、どうもさうではなかつたやうだ。大雜把に云へば、リバタリアンとは國内政策については或る意味右翼的、外交政策については或る意味左翼的な主張をする事で知られてゐる。左右による思想の區別しか知らない日本人にとつて理解し難いのは當然で、私を「ただの左翼」と決めつけた喜六郎先生もその一人だつたに過ぎない。と云ふ事で「勇み足」については快く許して進ぜませう。時間があれば森村進教授の『リバタリアニズム讀本』でもお讀みになつてみては如何。

續きはまた今度。年度末で結構忙しい。

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2008年3月 1日 (土)

軍隊と防衞

喜六郎氏は案の定、ヘタマゴ問題について反論できず、次の話題に轉じたやうである。一つの問題についてじつくり議論する能力がないからと云つて、次から次へと話題を變へないで貰ひたいものだ。

国家・政府の強制が没道徳的で駄目だというのであれば、「脱走兵の自由」を認めるという中途半端な主張ではなく、「軍隊の廃止」を主張するのが筋であろう。/なぜ木村氏はそれを主張しないのか?

なぜ? 以前からそれを書かう書かうとしてゐるのだが、喜六郎氏が「後付け」だの「ヘタマゴ」だので因縁をつけてくるものだから、それに對應せざるを得ず、なかなか前に進まないのである。他人をさんざん引張り囘しておいて「なぜ主張しないのか」もないものだ。

人間は自らを守る爲に武裝し反撃する權利がある。しかしそれを國家に代行して貰ふ理由はない。むしろ掛替へのない自分だからこそ、その防衞を政治家と官僚の牛耳る國家などに任せず、個人の意思と權利を直接反映し得る道を探るべきなのだ。公的年金の慘状は良き反面教師である。私は立派な自衞官や元自衞官を個人的に存じ上げてゐるが、社會保險廳にも立派な人はきつとゐるだらう。にもかかはらず年金問題は起こつたのである。

國軍の廢絶は防衞の廢絶とイコールではない。しかしこの問題はとても短い文章で書ききれるものではない。眠いので寢る。後日期待されたし。

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2008年2月28日 (木)

ヘタマゴすればウィキ荒らし

喜六郎氏より有益な情報。

たとえば木村貴氏。/彼は以前、自分のブログにて福田逸氏が「ヘタマゴ」という語句を使用した事を槍玉に挙げ、「ヘタマゴなる愚劣な言葉を書き連ねて平気な福田逸は馬鹿だ」とゴチエイ気取りで居丈高に非難したことがあった。/その後ウィキペディアに何者かが"「ヘタマゴ」という珍妙な言葉を使う。"と記入し、それを見た福田逸氏が「ヘタマゴ」という語句は自身の造語ではなく、国語辞典にも載っている語句だということを論証された。
早速確認。たしかに福田逸氏、次のやうにお書きになつてゐる。
最近ウィキペディアを見て吹き出したことがある。項目は、こともあらうに、私の名前である。[略]大筋では問題ないのだが、項目説明の最後に、誰かの手により、いつの間にか一行加へられてゐる。/何が加えられたかといふと、≪ブログ「福田逸の備忘録」で「ヘタマゴ」という珍妙な言葉を使う。≫といふ一文。吹き出したといふのはここである。/当然このブログを読みに来た人物が書き加へたことは言ふまでもないが、≪「ヘタマゴ」という珍妙な言葉≫と書いたといふことは、「へたまご」といふ言ひ回しを知らないといふことだらう。「へたをまごつく」――略して、ヘタマゴ。「ヘタマゴすれば民主党の政権が出来かねない」、などと使ふ。この言ひ回し、無意識に使ふ程度には私の頭に入つてゐる。今まで辞書で調べたこともなかつたが、小学館の日本国語大辞典(第二版)を引いたら、「下手なふるまいをする。ぐずぐずとまごつく」といふ説明を載せてゐる。

ああ、載せてゐる辭書もあるかもしれない。 ところで、それが何か。もう一度私の文章を見て貰ひたい。

しかし傳統を守れと聲高に叫ぶ言論人が「噂を信じちやいけないよ」だの「ヘタマゴ」だの「ガラガラクシャ」だのと愚劣な言葉を書き連ねて平氣でゐるやうなら日本文化は、つまり日本は、いづれ滅びる。

私は「ヘタマゴ」を「愚劣な言葉」とは書いたが、「珍妙な言葉」などとは書いてゐないし、辭書に載つてゐないとも書いてゐない。「噂を信じちやいけないよ」だつて、「噂」「信じる」「いけない」と分ければ當然ながら辭書にちやんと載つてゐるし、「ガラガラクシャ」だつて、擬音語擬態語辭典の類を引けば載つてゐ……ないだらうな、さすがにこれは。兎も角、それらの言葉はいづれも愚劣、下品、輕薄であることに關して變はりはない。まあ、「ヘタマゴ」と云ふ言葉だけを取り出して、「噂を信じちやいけないよ」や「ガラガラクシャ」には一言も觸れない喜六郎氏の高等戰術だか、「木を見て森を見ぬ」讀解力の高さだかについては、「お見事。とても眞似できません」 と云つておかう。

と云ふことで喜六郎氏はまたしても論破されてしまつたわけだが、經驗上、堂々と反論して「言論責任」を明らかにしてくれるなどとは全く期待してゐない。それは別に構はないのだが、好い氣になつてこんな事まで書くのは、他人に責任ある言論を求めるお方として如何なものか。

ウィキペディアに例の一文を記入したのが木村氏であるとは残念ながら断定は出来ない。なぜならば、状況証拠(福田逸氏の「ヘタマゴ」に言及してたのは木村氏だけ)はあっても決定的証拠は無いからである。

私はウィキペディアへのログインの仕方も知らないのだが、それこそヘタマゴすればウィキ荒らしの濡衣を着せられかねない。桑原桑原。喜六郎氏に知つておいて貰ひたい諺がある。七度尋ねて人を疑へ

それにしても事の發端になつた福田逸氏の文章、郵政民營化への賛否などは勿論別にして、何度讀んでも愚劣極まる。この愚劣が分からぬ人間に何を説いても無駄だらう。

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2008年2月21日 (木)

書いてゐますが…

前囘の記事に對し喜六郎氏より反論があつた。私が「政治と道徳とは別物であると同時に、分かちがたく結びついてゐる」と書いた事に對し、次のやうに「突っ込みを入れて」くれてゐる。

これは後付けだね。 こういう事はもっと前から言っておくべきだった。今ごろになって姑息に軌道修正するのはみっともないと思う。後からだったら何とでも言える。

「もっと前から言っておくべきだった」……? それなら例へば二年も前に書いたこの文章は何なのだ。

政治と道徳は究極的に分け得ない部分も殘ると思ひますが、まづ分けて考へない事には、分け得ない部分も理解出來ないでせう。

それから、三年前に書いたこれ

人間は政治的動物であるから、宗教も政治的役割を負はざるを得ない場合がある。しかし人間は道徳的存在でもあるから、宗教は道徳的役割をも負ふべきである。そしてソフォクレスの悲劇「アンティゴネー」が示すやうに、政治と道徳とは對立する局面がある。
(註)「政治と道徳とは對立する局面がある」と書いた以上、「對立しない局面もある」と云ふ事を私は認めてゐる譯である。どう考へても。

もう一つ、松原正先生の講演の紹介から。

イエスは「神の物は神へ、カイザルの物はカイザルへ」と述べ、カイザルの物(政治)以外に神の物(信仰・道徳等)が存在する事を強調した。神の物とカイザルの物との對立は容易に解決出來ないが、一方に偏せず、雙方に關はつて生きるのが全うな人間なのだ。

いづれの文章も、政治と道徳が「別物であると同時に、分かちがたく結びついてゐる」事を前提に書いてゐる、
いやいや、事實上同じ意味の事を書いてゐるとしか讀めないと思ふのだが。

自由主義者の私としては、誰もが自由に物を書ける日本は本當に良い國だと思ふが、他人のブログをろくに讀みもせずにテキトーな事を書くのは出來ればやめて貰ひたいなあと感じたりする今日この頃である。

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2008年2月19日 (火)

道徳は政治に先行する

政治と道徳とは別物であると同時に、分かちがたく結びついてゐる。だからこそ「アンティゴネー」の昔から、兩者が密接に關はり合ふ事象について、多くの議論が重ねられて來た。その典型が戰爭である。

どのやうな場合であれば、ある人間が他人に物理的暴力を振るふ事が道徳的に是認されるだらうか。それは他人から物理的暴力を振るはれた場合、あるいは正に振るはれさうになつた場合であらう。前者は報復であり、後者は自衞である。報復はさらなる暴力の行使を防ぐ效果があるから、結局は自衞に含めてよからう。要するに、他人への物理的暴力が道徳的に是認されるのは、自衞の場合に限られるのである。

さて私の親なり妻なり子なりがAと云ふ責任能力ある人間から虐殺されたとして、私が報復の爲に、自ら、或いは現實的には國家と云ふ代理人を通じ、Aを殺す事は、道徳的に是認されるべきか。當然是認されるべきであらう。しかしAと一緒にゐた無關係な群衆まで機關銃で撃ち殺して仕舞つたとしたら、まづ許されないだらう。たとへ群衆がAと同じ國籍を有し、同じ言語を話し、同じ宗教を信仰し、あまつさへ私に對して罵詈雜言を浴びせてゐたとしても。

國家が互ひの國民を總動員して行ふ闘爭、すなはち戰爭は、個人をこのやうな反道徳的行爲に追ひやる危險を常に孕んでゐる。とりわけ我が國もかかはる「對テロ戰爭」のやうに、他國にわざわざ出掛けて行つてやらかす戰爭となると、無關係な者を殺すと云ふ反道徳行爲を犯す恐れは格段に大きくなる。

かうした考へ方は感傷に過ぎないのだらうか。戰爭は冷徹な政治の領域に屬する事柄なのだから、「無關係な者を殺す事は惡である」と云ふやうな甘つちよろい道徳を持ち出すのは筋違ひなのだらうか。

さうは思はない。道徳は政治と同格ではなく、政治に先行する領域である。從つて政治的行爲の是非も、究極的には道徳によつて判斷されるべきなのだ。

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2008年1月18日 (金)

脱走兵の自由

戰爭が道徳的であるための條件は何だらうか。幾つかあると思はれるが、まづ自由意思との關はりについて考へてみよう。

ある行爲を道徳的と呼ぶには、自由意思に基づいて爲される必要がある。

強制されて行ふ行爲が道徳的であるかのやうに見える場合はある。そのやうな行爲も社會を維持する上でそれなりの意義はあるかも知れないが、眞の意味で道徳的であると云ふことは出來ない。例へば、何の罪もないのに拳銃で脅されて仕方なく金を出し、それが結果的に恵まれぬ人に寄附されたとしても、金を出した人間が自らの意思で行つたのでない以上、眞に道徳的な行爲とは云へない(この譬へを敷衍すれば、嫌々拂つた税金で結果的に困つた人を助けても道徳的とは云へない。つまり大半の場合、税とは沒道徳的な制度なのである。閑話休題)。

さて、この理屈を戰爭に當嵌めるとどうなるであらうか。敵と云ふ名の人間を殺すことが道徳的であるかと云ふ問題はひとまづ措くとして、少なくとも國家や上官から暴力で脅されて戰地に赴いたり敵を殺したりしても道徳的とは呼べないと云ふことになる。いつでも戰場から自分の意思で離脱できると云ふ環境があり、それでもなほかつ自らの意思で戰鬪に參加して初めて、道徳的である爲の條件の一つを滿たすことになるのである。

つまり、脱走兵となる自由を認める戰爭でなければ、道徳的とはなり得ないのである。

無論、さう云ふ自由を認める軍隊が勝てるかどうかは分からない。だが人間が道徳的になり得るかどうかと云ふ話と、戰爭に勝てるか勝てないかと云ふ話は、そもそも別物なのである。

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2008年1月13日 (日)

地球温暖化の恩恵

武田邦彦『環境問題はなぜウソがまかり通るのか2』を買つて來た。目を引いたごく一部を要約する。

地球の氣温はこの百年で〇・七四度ほど暖かくなり、その結果、海面水位は七センチほど上昇した。過去の樣子から將來を豫測すると、氣温の變化として暖かい隣の縣に引越すくらゐのことは起こり、海面水位が三十年で十一センチほど上がることも見込まれる。しかし海面水位はもともと潮の滿ち引きだけで二メートル以上も上下するが、大きな問題は起こつてゐない。また暖かくなると腦卒中や心臟病で死ぬ人は少なくなるし、雪國では雪下ろしで死ぬ人も減る。現在の寒冷地でも農作物が多く獲れるやうになる。

温暖化(が起こるとして)によるデメリットはあるだらう。しかし物事は常にメリットとデメリットの差引勘定で考へなければならない。

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2008年1月11日 (金)

地球温暖化説なるもの

そんな快適や安樂を貪慾な迄に追及し、手に入れたのと引き換へに、我々は地球の温暖化を招來し、その果てに近しい子孫達の快適な生活環境のみならず、生存をさへ危ふくしつゝあるのではないか、との殊勝な反省が、ふと心に浮んだのだ。

NHKや朝日新聞やその他マスコミが一斉に喧傳する「地球温暖化説」なるものが本當に正しいかどうか、敬愛する臍曲がりの山人さんであれば一度お疑ひになつてみても宜しいのではないでせうか。 この説については科學者の間で賛否兩論あるやうです。

最近、と云つても一年ほど前からですが、武田邦彦『環境問題はなぜウソがまかり通るのか』と云ふ本がよく讀まれてゐるやうです。池田清彦『環境問題のウソ』もお勸めします。さらに本格的にはビョルン・ロンボルグ『環境危機をあおってはいけない』がよいやうです。

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2008年1月 3日 (木)

余は如何にして自由主義者となりしか

こんな小さな發表の場しかない無名人のくせに、まるで大思想家のやうな大袈裟な信條告白を以下記したいと思ふ。正月休みで暇を持て餘していらつしやる方のみどうぞ。かなりの長文です。

最近木村は左翼みたいな事ばかり書いてゐるとお感じの方がいらつしやると思ふ。國家を非難したり、反戦主義者のやうな事を云つてみたり。それはここ數年の摸索を經て、物事の考へ方についての據り所が大きく變はつたからである。以前の據り所は大まかに云へば保守主義であつた。現在は違ふ。自由主義である。それも「大まか」な自由主義などではなく、嚴密で徹底した自由主義である。さうなつた經緯を簡單に云へばかうだ。

仕事でスイスに赴任してゐた2001年秋、例の9-11テロが勃發した。ヨーロッパは午後で、同僚からの電話に促されてテレビを點けたら、もうもうと煙を上げるニューヨークの世界貿易センタービルの映像が現れた。その後、アメリカ政府はアフガニスタンやイラクでの戰爭に突入して行く。案の定、日本を含め世界にはアメリカを非難する聲が渦卷いた。當時の私にはそれは餘りにも安易な思想的態度に思へ、大いに不滿だつた。主流メディアの主張は九分九厘、反米的な内容で、逆の意見を知りたいと思つても讀めないのだ。

そこで私はアメリカの保守派智識人たちの書いた本を讀むことにした。本來の趣旨から云へば、對アフガン・イラク戰爭を唱道した「ネオコン」智識人たちの著書を澤山讀むべきだつたのだが、何せ初學者なものだから、ふとした彈みで、「反左翼」と云ふ意味では保守派に一應分類されるが、對外干渉主義のネオコンとは思想的に對極にある智識人たちの本を手に取つて仕舞つた。それがアメリカの自由至上主義者、專門用語を使へばリバタリアンの著作だつたのだ。

私が最初に讀んだ二册のリバタリアンによる著作は、トマス・ウッズ(Thomas E. Woods Jr.)の『カトリック教會は西洋文明をいかに築いたか(How The Catholic Church Built Western Civilization)』と、トマス・ディロレンゾ(Thomas J. DiLorenzo)の『資本主義はアメリカをどう救つたか(How Capitalism Saved America)』であつたと思ふ。いづれも篦棒に面白い本だつたが、これら二人の著者はアメリカにあるミーゼス研究所と云ふシンクタンクにいづれも所屬してゐた。ミーゼス研究所の名は、オーストリア出身の自由主義的經濟學者ルートヴィヒ・フォン・ミーゼスに由來する。私はミーゼス研究所のウェブサイトを閲覽したり、リバタリアン思想について勉強したりするやうになつた。

だが何か變だ。まもなくさう感じるやうになつた。私はそもそも、アメリカの對外戰爭を支へる思想を知りたくて同國保守派智識人の著作を讀み始めたはずである。たしかにネオコンの本も面白いは面白い。だがそれ以上に面白いと思つたリバタリアンたちは、どうやらアメリカの戰爭に反對してゐるやうなのだ。そしてネオコン智識人やブッシュ大統領を口を極めて罵つてゐるやうなのだ、まるで日本の左翼言論人のやうに。これは困つたことになつた。

最も當惑したのは、ミーゼス研究所と一種の共鬪關係にある「アンチウォー・ドットコム」と云ふウェブサイトの存在である。このサイトへの寄稿者はリバタリアンばかりではないのだが、いづれにせよ「反戰」と云ふそのまんまの名前と内容で、反戰思想ほど底の淺い欺瞞的な思想はないと考へて來た私は大いに戸惑つた。ある日覗いてみたら、グアンタナモ米軍基地で行はれたテロ容疑者虐待の冩眞をでかでかと掲げ、アメリカ政府を糺彈してゐるではないか。「これぢやあ左翼と同じだ」。私はさう思ひ、リバタリアンとは縁を切ることにした。そのはずだつた。

しかししばらく時が過ぎた後、私はリバタリアンと徐々によりを戻した。とりわけ2002年に日本に歸任し、やがて國内論壇で反市場主義、反自由主義の風潮が吹荒れるのを目にしてから、リバタリアンの主張が再び輝きを増して見えてきた。それは私が曲がりなりにも經濟ジャーナリズムの世界で飯を食つて來たからと云ふよりも、もともとラディカルなものに惹かれやすい性格をしてゐたからだらう。ともあれ、私は再び熱心にミーゼス研究所やその關聯組織のサイトを讀むやうになつた。「アンチウォー・ドットコム」もである。そして得心した。冷靜に考へれば、テロ容疑者を虐待するのは立派な人權侵害である。自分が容疑者と同じ立場に置かれた時の事を考へてみるがよい。

また悟つた。ここで詳しく書く餘裕はないが、自由主義は絶對平和主義ではない。自らの生命と財産を侵害する敵に對しては斷乎鬪ふ思想である。しかし自らの生命や財産が明白に侵害されてゐるわけでもないのに、わざわざ海外に出掛けて行つてやらかす戰爭に對しては極めて否定的である。かうした形の反戰思想ならばアメリカに昔からある。いはゆる孤立主義である。過去においてはロバート・タフト上院議員が有名だし、最近ではかつて大統領選にも立候補した評論家のパット・ブキャナン氏(彼はリバタリアンではないが)が知られてゐる。ちなみに今年の米大統領選には、ミーゼス研究所と縁の深いリバタリアンで、候補者として唯一イラクからの米軍撤退を唱へるロン・ポール下院議員が參戰し、健鬪してゐる。日本の新聞では殆ど紹介されないが。

ともかく現在の私は日本やアメリカで云ふ「リベラル」(左翼の別稱)なんぞではなく、眞の意味での自由主義を信奉するやうになつた。我が國の智識人は自由主義を冷笑する傾向が強いが、それも當然で、日本に自由主義の知的傳統はない。だが西洋では少なくともジョン・ロックやアダム・スミス以來の歴史がある。考へやうによつては、自由主義の源流はアリストテレスやトマス・アクィナスに遡る。要するに西洋と自由主義とは切つても切れない關係なのだ。自由主義が人間のすべての問題を解決するなどと云ふつもりはない。だが自由主義の背景にはそれを支へる優れた道徳哲學が存在し、それを含めて考究する價値は大いにあると思ふ。『國富論』を著したアダム・スミスは『道徳感情論』と云ふ著作も殘してゐるし、ミーゼスの弟子で戰後アメリカの代表的リバタリアンの一人だつたマリー・ロスバードは『自由の倫理學』と云ふ著書を書いてゐるのだ。

戰爭について云へば、正義の戰ひはある。だが正義の戰ひがあるとすれば、不正な戰ひも存在するはずだ。自由主義は兩者の峻別について一つの指針を與へるが、それに關しては追々書いて行きたい。經濟・政治・道徳問題についてもこれまで通り、だがより旗幟を鮮明にして書いて行きたいと思つてゐる。忌憚なき御批判を賜れば幸ひである。

私は、戰後日本を代表する評論家、福田恆存の一番弟子にして、英文學者・劇作家・文藝評論家・時評家である松原正先生(早稻田大學名譽教授)を深く尊敬して來たが、松原先生の思想と自由主義とは兩立できると考へてゐる。いやいや、そもそも私が自由主義を信奉するやうになつた一因は、何かと云ふと政治に頼らうとする日本人の心性を嚴しく批判されて來た松原先生の思想に接したことだと思つてゐるし、西洋思想を見る目を開いて下さつたのも松原先生なのである。 現在のこの文章の表記法も松原先生の影響が最も大きい。

それでは皆樣、ちよつと申し遲れましたが、今年もどうぞよろしくお願ひ致します。

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